忍者ブログ

操練会議

このblogは、HP「物部守屋の末裔 勝海舟の研究」の付設ページとして設けられました。
MENU

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

人は中学高校から大学へ、利己主義を学びにいく

現代日本の教育体制の現実を見れば、現在の学校体制こそ、子どもの無意識に「利己的に生きるように」とささやきかけている最大の精神圧力なのではないかと思います。教科書という「書き物」を使って実際の教育現場で「建て前」のようにして言われてきたこととはウラハラに----なぜなら現代の学問的言説はいつも人々の精神生活の表層にとどまっているにすぎないのですから。それは薄くバラまかれた表土にすぎません。ネットの登場によって左傾的な言説の権威の一角が崩壊しましたが、それは社会を覆っていた言説が実は人々の精神生活の深部には届いていなかったことの現れでもあります。旧来の媒体を権威として受け入れていたたくさんの人々が「権威とみなす者たちの言葉」を「学習」したことによって、「当然そう語るべきものだ」と思い込んでいたにすぎません。しかし、こういう態度こそが近代の教育システムが内包している精神です----現在ではますます、「利己主義のススメ」を子どもの無意識に注ぎ込んでいるのが、今の日本の学校進学制度と言えるんじゃないでしょうか。子どもは、中学高校から大学へかけて、「教科書によって学ばされた内容」によってではなく、「教育体制そのもの」がもつ奇妙な精神的圧力----これこそが「現実的な教育力」となって、「そういう人間になれ」と親や子や教師やかれらを取り囲む社会をつき動かしているモノです----によって体験的に利己主義を学んで成長していくのではないのですか。これこそが現代社会で「実際に起きていた事」でしょう。現代の学校体制そのものが、人々が精神荒廃へ至るための注入口となっているという指摘について、私が言いたいことを、どうも現在までのところ、まだうまく言葉で表現しきれないとは思うんですが、「なんかその感覚分かるような気がする」と感じてくれる人は必ずいると思います。

PR

分けるためにテストする

もちろん学習塾が繁盛しているのは、現代の日本の教育システムが、医者たちのように代価をもらって責任をもって悪くなっている部位を常態に復帰させるというような思考態度ではなく、国民から子ども預かって一箇所に集めて同じ教育をほどこし、試験で選別をほどこして、その中から国家経営に役に立つ人物をチョイスして、日本の近代化に貢献させる、という明治以来の教育の基本思想を、今も無自覚に踏襲しているからです。確かに、かつての制度には光の面もありました。かつては貧しい農家の子がまさにそのようなシステムによって拾い上げられ、公費によって教育を受けることができ、出世して軍事・行政等の国家事業に参画しうる道がありましたが、戦後、状況は一変しました。それは私が「帝国主義は終わっている」という当ブログ記事の中でも示した通り、幕末明治期の日本人が「そのこと」に関して本当に駆り立てられざるをえなかった外部状況が大変貌を遂げ、現代日本人はもはや幕末明治期以来の日本人と同様な動機を教育行為の内部で「実感する」ことがなくなったからです。そういうわけで、いまは形骸化した教育システムが「個人的な野望の実現」の維持のために利用され、知的であることを密かに誇っている人々の「精神生活の頽廃」を後ろから肯定する機能を果たしているだけになりました。国民は、現在のような教育システムを維持し続けることで、そのような人々の頽廃した隠れた利己主義を支えるために税金を払い続けなければなりません。

皮肉なことに、学力をつけるということに関して、医者のような役割をしているのは、むしろ学習塾の方です。現在の学校システムは試験による選別システムを放棄するわけにはいきません。学力数値とは、その選別指標です。学校はその「選別数値」を社会に対して示さなければなりません。社会はそれを「利用」します。ですから、親の側は少しでも自分の子どもが優位な立場で試験システムをクリアできるようにと、「成績アップ」を宣伝文句にしている学習塾に子どもを入れて理解不足の補いと受験テクニックの伝授をそのような業界に依頼するわけです。金をもらって請け負った以上、業者はたとえそれが「建て前」であれ、個々の依頼者の「学力」が向上するようにと努力します。学習塾が繁盛するのは、日本の教育システムが学習塾を繁栄させるようなシステムで成り立っているからです。

しかし個々の学校教師や学習塾講師に「なぜこの時期にこの知識を身につける必要があるのか。その理論的根拠をあなたは知っているのか」と尋ねてみてください。実は誰も答えられません。「それを今のこの学年でなぜ覚えさせ、身につけさせる必要があるのか」ということに関しては親の側はまるで無関心です。教師もその「深い理由」は知りません。ですから、たとえば車の運転免許試験では「最低限これこれの知識と運転能力を持たせなければならない」という明確な指導基準があるようには、学校教育は行われません。それに、どのような子どもにも〈平等〉に教室の椅子に一日の一定時間座れる保証は法律で行っても、これこれの知識をこれこれの根拠によって身につけさせ、皆を同じような学力を持つ子どもとして送り出すという保証は請け負ってはおりません。現在のような集団指導体制でひとりの教師がそこまで請け負うことはとても無理な相談です。しかも、それを可能にできる体制を整えたとしても、それでは「人材チョイスのために教育システムを利用するという近代前期に導入された選別システム」が機能しなくなります。「最終的な学力結果は皆同じであってはいけない」のです。意図的に差をつけてこその選別システムです。しかし差をつけるためにつかう「学力指標」の中身については、その知識や学力が現実の問題に対してどれほど有効性を発揮しているか、はなはだあやしい代物です。子どもはそこでやっていることの意味が分からず無意味感でくたくたになりますが、だれも子どものそのような「本能的な疑念」にちゃんと答えることができません。ある意味、皆眠り込んでいるからです。

国民は税金を払わされて子どもを国家の提供する教育システムに送り出しますが、市場価値のある野菜や果物がベルトコンベア上で選別されるように、実は選別されているにすぎません。明治に学校制度が始まったとき、農村の親たちは「オレの子どもは学校なんぞにはやらん」と反抗しました。「働き手はいなくなるし、それに子どもに下手に学問をやらせると理屈ばかり達者な役立たずになる」と彼らは答えました。それはある意味彼らの「本能」から出てきた言葉でしょう。しかしそのような親たちも近代化の流れを受け入れざるを得ませんでした。今では「オレの子どもは学校教育なんかに任せられん、自分流に教育する」などと反抗する親はいません。近代以前西洋では、貴族階級の良家の子どもは家庭教師で教育されていました。そこには家庭教師による試験はあっても、その結果は選別のために利用されることはありませんでした。口頭によるものであれ、記述式によるものであれ、彼らの行う試験は「問診」あるいは「検診」のようなものなのであって、その結果をもとに各家庭教師は対処をしていただけです。

いまの国家の教育システムは、国民が税金を差し出しても、医者のようには子どもに対処してくれません。形や質の悪い果物や野菜が先へ進めずに廃棄処分になるように、処理していきます。廃棄をのがれようと、金銭に余裕のある家庭は自分の子どもに学習塾というカンフル剤を打ちます。そのように「現代日本」の教育システムというのは、ある意味非情なシステムです。 

そして30年前は学習塾の存在に大反対していた公教育の教師たちも、30年後の今は自分の子どもを「悩める親」として密かに学習塾に送り出しています。自分の子どもを学習塾に送り出さざるを得ない彼ら教師たちの内面に、一方で一種無念な感じはあってもどうにもなりません。彼らも「自分の子ども」に「学力」を付けさせるためには、学習塾に金を払わざるをえない状況に立たされているからです。どのようにしても差を生んで選別するシステムは磐石なので、たとい教師側の努力で掛け算できない子に力を付けさせても、それ以前にできるようになっている子も同じように教育を受けているのですから、「差を維持したまま」先へ進みます。

そして「差が表面上に現れない」と教師たちは進路指導できません。現代の教育はどれほど建て前で教育の機会均等を叫んでも、国民の子どもたちを確信犯的に選別システムにかかるように強いていることに変わりはありません。そしてその処置がますます大規模に機械的に行われるようになったのが、近代教育システムの生みの親たる西洋諸国ではなく、それを後になって受け入れたアジアの国々なのです。ここにも「形式」だけが受け入れられて、それがさらに奇妙な「精錬」を受けているにもかかわらず、それを「近代思想の応用」とみなしている人々の迂闊さが現れているのです。それこそ「ハイパー西洋主義」なのですが、彼らはそれを「日本的」といって自慢ばかりするようです。

今の子どもは本当はゆとりなんて持ってない

「ゆとり教育」批判、とくに右の側からの批判が多いですが、だいたいこれらの人々は「国家指導体制主義者」ですから、なんでも「国から国民へ」という流れで行えば、うまくいくと思っています。そういう発想を究極的に押し進めたのが、実は近代の共産主義思想でした。国家主義者が共産主義者に似ているのは、国民の精神生活を、すべて国家中心で考えるという、近代以前にはなかった、まさに近代の初期を破壊と闘争の世紀にした「近代思想」にいまだにどっぷりとつかっているからです。近代になって登場した国家主導の義務教育体制というのは、実は非常に社会主義体制的な性格を持っているということに人々は気がつきません。国家が管理する教育体制をめぐる左右の対決とは、そういった本質-国家主義者どうしの喧嘩でもあります。だから、よくよく注意して聞いていると、右側から教育批判をする人の中には、共産主義的な国家主義から導き出された教育思想とよく似たことを言う人がたくさんいることが分かります。彼らは教育問題では中国や北朝鮮の国家指導者たちと大変に意気投合できるはずです。

学校の授業時間数は若干減りました。ですが子どもたちは学校から自宅へ帰ったら、みんなで広場に集まって「勉強もせずに遊んでいる」でしょうか。そんな30年前なら当たり前だった風景はどこにもありません。では子どもたちは「どこに消えてしまった」のでしょうか。「学習塾」です。そして経済的に余力のある家庭の親は、自分の子どもを学校から帰宅させても、ほってはおきません。どうぞ調べてみてください。そのような子どもは学習塾以外にも別種の習い事に出かけています。1週間のすべてが何らかの学校外活動で埋まっている子どもがどれほどいるか、「学校の授業時間が減った」と批判する人々はちゃんと理解しているのでしょうか。

今の40代以上の年齢の人は思い出してください。すでに30年前にも学習塾はありましたが、その当時の習い事といえば、まず人々が思いつくのは書道塾とそろばん塾でした。人々はそれらを「習い事」と呼んでいました。(そのほか芸術系ではピアノ教室、身体系では柔道・剣道・空手・合気道の道場などに通う子どもも若干周囲にいましたね。)私が中学生のころには、もちろんまわりに学習塾に通っている子どももいましたが、全体的な数としては多くはありませんでした。それは都会を別にすれば、どんな地方都市も似たようなものだったでしょう。もちろん東京をはじめとした大都会の子どもをめぐる環境もいまとはずいぶん異なった「ゆるい環境」だったに違いありません。いったい30年前の子どもの「総実質勉強時間」と今の子どもの「総実質勉強時間」の差はどのくらいでしょうか。学校から帰ると、空き地なんぞに飛び出して、いまの子どもたちのように同学年同士ではなく、いろいろな学年の子どもがひとつに集まってワイワイ遊んでいた子どもたちの「総実質勉強時間」というものはどれくらいだったのでしょうか。 

現代の子どもたちが遊び呆けているなどというのは、まったく実情を知らない人々の意見です。本当にそうだったのなら、私も子どもたちはもっと勉強すべきだと言うことに躊躇しないでしょう。しかし今本当に起きていることは、30年前の子どもにはなかった事態です。すなわち、「子どもの生活時間(精神生活)」の「大人の側からの徹底的な拘束と管理」です。

30年前の子どもは学校から帰ると、現代のような強度な大人の側からの管理を受けませんでした。小学生の時期は特にそうです。現代の親は30年前の親よりもたくさんの子どもの生活時間管理を行うように実はなっています。ただそれは、「お金を払って子どもの生活時間を別の施設管理者に預ける」という方法をとっています。子どもと「精神的に接する時間」というのは、30年前に比して、逆に減っています。もはや30年前の家族の日常風景のように「毎日家族全員で夕食をとる」などという習慣を維持できている家庭は少数派になっているのではないでしょうか。しかも離婚家庭の増加で、学校の教師は離婚経験者の親を持つ児童生徒をたくさんかかえています。現代の日本には一つのクラスに両親の離婚経験をした子どもがたくさんいることも普通の状態になっています。教師はそのことも理解して子どもに接していかなければなりません。

どうして、子どもの教育に関して----子どもの「精神生活」を取り巻く環境の激変に関して----「30年前とは変化している現実」をちゃんと「直視」して、「新しい状況から新しく考え直す」ということができないのでしょうか。現代の教育問題を左右の政治対決として語ろうとするものは、事態をまったく見誤っているのです。単に学校の授業時間数を増やせば学力問題が解決する、というのは短絡でしかありません。問題は「子どもの学力問題」ではなく「子どもの精神生活問題」なんだということが分からない限り、彼らは本質的に国家主義者として、「子どもの精神生活を荒らす敵」として振る舞う道を今後も進むことになるのでしょう。ならば、私は子どもの側についてそのような「国家主義者たち」と戦いたいと思いますよ。

教科書は分厚くなるの?

昔、大学生時代、家庭教師をしていたことがある。その子は中学1年の男の子だったが、社会科(歴史)が苦手だった。その子がこういうことを言った。

1000年後の子どもの使う学校の教科書って今より覚えることが多くなるから、分厚くなって、ますます覚えなければいけないことが増えて大変だね。

私はこんなふうに答えた。

ほんとそーだね、未来の子どもは気の毒だねー。普通に考えると、1000年後にはもっと覚えるべき歴史の用語がふえちゃうだろうねー。でもね、きっとそうはならないと思うよ。実はさ、学校というところはさ、国語なり数学なり社会なりを何時間教えなさいってのが先に決まってるから、教科書はその時間数に合わせて作り変えられていくんだよ。きみは塾には通ってないけど、家庭教師とか塾なんかさ、そういうのってまったくフリー状態だからボクとか塾のセンセは好きなように時間数決めて、場合によっては生徒の質に応じてある教科を増やしたり、減らしたりして調整しているけどね。実は学校ってところは、その辺のところが、融通がきかないお役所のような部分があるんだよ。だからさ、今きみが覚えなさいって言われている用語のいくつかは1000年後には新しく登場してくる用語と入れ替わっちゃうよ。そしてね、学校の授業時間数が1000年後も変わらないと仮定すると、たとえば社会の教科書の厚みは同じまま、いったい誰がどんな権限でそんなことを選んでいるのか、ボクにも分からないけど、「教えなさい」って、つまり「大事だから覚えなさい」って指定される内容が変わるだけってことなのさ。今君が覚えるのに苦労している単語のいくつかは1000年後の中学生は覚える必要はなくなるよ。そのかわり、いまきみが覚えなくていい新単語を未来の中学生は覚えさせられることになるだろうけどね。単語の持つ重要度ってのはさ、普遍的、分かるかな、フヘンテキって、いつでも変わらないわけじゃないんだよ。

彼はあまり私の言っていることが理解できていないようだった。実際、先に盛りつける皿の容積が決められ、その後で食べさせられる内容が決められるのだというような話は、中学1年生には難しい話には違いない。子どもは皿の容積なんぞには興味はないだろう。何が食べられるのか、おいしいものだったらいいな、と思うばかりであろうから。

私はこうも言った。

でもさ、1000年後の人間は、いまみたいにテストテスト、って言わなくなってるかもね。どこの学校ももっといまとは違った授業をする学校に変わっているかもしれない。大人の人たちの勉強というものに対する考え方がいまとはまったく変わっているかもしれない。それはおおいにあり得ることだと思うな。まあ、きみは現代の人間だから「うーん、うーん」と苦しい声を出しながら今の学校制度の中で、苦手な歴史の暗記にいそしまなければいけないと思うけど。

えー、だったら1000年後の子どもに生まれればよかった。

その気持ちはよくわかるよ、と答えつつ、期末テストに備えて、彼をはげます大学生のボクがいた。

高校はいらない

兵頭二十八氏の「高校はいらいない」という意見、非常にいいと思います。

http://sorceress.raindrop.jp/blog/2006/10/#a000736

世間では学力の低下が問題視されていますが、「はて、その世間で言われているところの、いわゆる学力の意味そのものを問おうとしない教育改革って何?」と昔からずっと思っておりましたよ。そういう意味で兵頭さんは、もっと根本的な疑義を提示されているわけです。あまり極端化して書くと誤解をされるかもしれませんが、私は学力が不必要だと言っているわけではないんです。

前のエントリーで学校の教師が教科書の単語を試験して「お前はアジアをよく理解している」とか「アジアを理解できていない」とほめたり不平を言ったりすると書きました。アジアの地理のテストで0点をとろうが100点をとろうが、学校という場所で、子どもたちと教師との間で共有されている知識----あるいは「設問に正しく解答できるという能力」は----まるで現実感のない世界で、言葉遊びのために使用されるだけのものになっています。人々はそれを「学力」と呼んでいます。学校という隔離された場所で、校舎の向こうにある「現実という線路」の上を高速で進む列車のゆくえをかたわらで眺めながら、このような言葉遊びを続けることで、自分たち自身はどこに向かって進んでいるのか、その目的もはっきりわからないまま、日々理由なき表象の記憶行為にふけっているわけです。「楽しくない無駄知識」「もうひとつのトリビアの泉」と化しているのが近代の学校制度であります。暗記&試験システムの上に築かれた明治以来の教育方法による評価と、「その学力結果」に基づいて子どもの進路選択の圧力とするというのは、いったいなんなのでしょうか。子どもはいったい「どんな力を身につけて」世間に出ていこうとしているのでしょうか。紙のテスト結果ばかりを----つまりこれが学力と言われているところのものですが----その場その場での短期的な評価基準ばかりを重視するのはなぜかということを批判しているわけです。設問に「考えさせる問題」を増やすことでその問題は対処できると答える人がいたとしたら、いま何が批判されているのかまったく理解していないということになります。そういう思考態度こそが日本の教育をダメにしてきたんだと言っているのですから。

高校生の世界学力テストという馬鹿げた学力テストを世界は行っています。一番最近のデータで上位3番までに入った国はどこだったでしょうか。1位フィンランド、2位中国、3位韓国です。イギリスもアメリカもフランスもドイツも入っておりません。このような結果は今回に限ったものではありません。 

しかしどうでしょう、国力の差----総合的な意味でということですが----でいうと、ペーパーテストで高得点を取った国々の国としての総合力は、とても上位3番までに入れるようなものではないでしょう。真の国力と学力テスト(ペーパーテスト)の結果は一致しているでしょうか。「現実に世界を動かす能力を持っている国々の潜在力はペーパーテスト上には現れていない」という厳然たる事実があることを人々はもっと深く受け止めるべきではないでしょうか。ちなみに日本は前回3位だったのに今回4位に転落したと言ってマスコミ中心に「学力低下が始まった」と大騒ぎしました。「高校生の国際学力比較テストと似たものを挙げよ」と言われたら、サッカーのユース選手権なんぞを例として挙げたいです。それらは両方とも高校生の年代の子どもたちが行うゲームなのであって、たとえばブラジルのユースチームが強いからと言って、ブラジルは総合的な力量を備えた先進国家のひとつと言えるでしょうか。われわれが深刻な問題と見なしている学力問題とはそのように、どこか点を取り合う競技スポーツ系のゲームと似たところがあるのです。

国力指標の逆転現象は何を意味しているのでしょうか。「学力テストで上位を取る能力」では「対応しきれない現実問題」が世界にはたくさんあるのだということです。そしてそのような「さまざまな現実問題」に対処できる人材を、教育問題においても日本同様に、あれこれ問題をかかえながらも、それでも「真に対処能力のある人材」を世の中に継続的に送り出すことのできる精神的土壌を持つ国々があるのだということです。

日本の教師が人格的にダメになってしまったのも、教育大学における教授内容や教員養成法も含め、国も地方自治体もそういう一面的な「学力主義」にますます寄りかかった法律運用をしてきた結果です。子どもたちのまわりにりっぱな人間を増やせば、それが回り道となって結果的に学力の向上に接続するとは考えません。すべてが形式主義です。

「えっ、学力が落ちたって、ならば勉強時間を増やせ、もっともっと詰め込め」----それは医療行為における対処療法のように、「薬の効き目が薄れたなら投薬量を増やせ」と言うような医師と同じです。教育の効果はもっと異なった回り道をするのです。社会が、教師の人格の力が子どもたちの知性を含めたさまざまな能力の発達に影響力を持っていると信じることができないなら、学校側も短期短期で結果がでるような安易な施策を今後もデモンストレーションとして行い続け、「ほら、対応策やってますでしょ」と文部科学省に紙面上で「はい、これこれのことを何時間ほどこしました」と報告書を提出するというようなアリバイ工作以上の振る舞いはできないでしょう。また指導を施す役所側たる文部科学省も、そのような「目に見える資料の提出」ばかりを仕事上の成果としています。ここにも形式主義がはびこっているからです。問題の根は深いのです。それは子どもたちのためではなく、行政側、教師側、教育委員会側の人間が、社会の側からの批判から身をかわし、当面の間しばしの安堵を得るための詐欺行為でしかありません。ここにもそれぞれの立場を守りたい人間の利己主義が忍び込んでいるのです。今のような教員の採用基準、あるいは採用後の育成方法では、教育委員会はけっして「教師としてふさわしいよい人材」を確保することもまた若い新人教師を、よい人間として無言の影響力を子どもたちの前で行使しうる教師として育てていくことはできないでしょう。すべてが形式主義に堕しており、人々がその形式主義を温存することを教育改革だと思い込んでいる限り、子どもたちの精神的受難は続かざるを得ません。昨今の続発する教師の不始末について、行政側、すなわち人事採用権をもった人々が、そのような道徳的な力の欠落した人物ばかりを教師として採用してきた責任、その「人間鑑定能力のなさ」について、彼らは批判を受けることがありません。彼らの「無能さ」もまた、社会から批判を受けるべきなのです。

カリキュラム、教科内容、教室での教授法、試験方法を含め、明治の学制導入以来、実はほとんどその形態が変化していないこの奇妙な日本の教育体系そのものをこそ見直すべきなんですよ。

今日本で起きていることは、子どもを「無意味感」でへとへとにさせて、それでも、むりやり、子どもがいま自分がやっていることの直接的な意味を考えることを当座そらせて、あの大戦争を経ても結局問い直されることのなかった、古びた明治以来の(当時の西洋式の)近代式教育システムに適応させようと奮闘する社会と子どもとの軋轢なんだということです。100年前の日本はまだ前時代から続く簡素な生活形態のなかで子どもたちも、大人の人格と大人の社会に信頼と敬意を感じて育つことができました。だからこそ子どもたちは大人たちの指導に従い、新しい西洋式の学校制度にも積極的になじんでいくことができたのです。個々人の意志力の発露はまだ一般的な開花をしてはいませんでしたが、それでも子どもたちは大人の統治する社会を敬意を持って見上げながら成長することができました。もしアンケートをとることが可能なら、当時の日本の子どもたちはいまの子どもたちよりずっとたくさんの子どもたちが「はやく大人になりたい。はやく大きくなって大人の社会の一員として加わりたい」と答えたことでしょう。いまや「見えざる世界」が変容を遂げています。人々はそこに目を向けようとはしません。現代の子どもたちは、すでに幼い時から自分の生きている社会に不信感を持って生きざるをえないようになっています。この100年で子どもの魂の状態も変化しました。画用紙の面上を覆っている色があるとします。それは子どもの魂の色を表します。100年前の子どももある魂の色を持っていました、その色が教育によって黄色く鮮やかにそしてほがらかに発色するように人々はある色を落としました。それは近代化に大きく役立ってくれました。そして100年後にも子どもがこの地上に生まれてきて、ある魂の色をしています。しかしそれはどこか100年前の子どもの魂の基本色と似ていません。そこに人々は100年前と同じような色素を加えようとしています。いま、その添加色は子どもの色をどう変えたでしょうか。100年前には明るく発色したものが、いまはどす黒く濁っています。

世に伯楽ありて、しかるのちに千里の馬あり、でしょう。

今の日本の子どもたちは、あの中国古典の雑説にある通りの、「千里の馬を駄馬にする奴隷人の手にかかった、へとへとにつかれきった馬」なんですよ。

(参考)雑説

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Renge/8328/stu/kanyu_zousetsu.htm

× CLOSE

カレンダー

10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

最新コメント

[11/13 DSLR-A850]
[07/13 青天]
[07/16 NONAME]
[06/26 抹茶]
[06/25 ミッドナイト・蘭]

プロフィール

HN:
抹茶
性別:
男性
自己紹介:
1960年生まれ。宮崎県延岡市在住。

最新トラックバック

バーコード

ブログ内検索

カウンター

× CLOSE

Copyright © 操練会議 : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]