昔(2002/11/30)朝日新聞の第一面「学ぶ意欲 転機の教育」欄に興味深い引用が載っていました。
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「おれ、勉強から降りたんです」
東京都内のフリーターの男性は言い切る。小学校時代から、勉強が必要だと思ったことはない。
「子供は勉強が仕事」
と言う先生に、
「金ももらえず、何もいいことが見えない」
と反発を覚えた。
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私が興味を引かれたのは、今回の記事のテーマ「勉強の意義、示す工夫を」についてではありません。先生が「子供は勉強が仕事」と言い、子供は「仕事なら、じゃあなんで金がもらえないんだ」と反発したという箇所なのです。おそらくこの先生の言い回しは多くの人が「子供時代」にどこかで聞かされた「説教」に違いありません。勉強したから「報酬」をくれとせがむ子どもも実際にいたでしょう。
けれども、そもそもこの「やりとりそのもの」が双方の大きな錯誤に基づいています。 そもそも先生は「仕事」という言葉を「賃金労働」という意味で使ったのでしょうか。単に「やるべきこと」というくらいの軽い意味だったのかもしれません。しかし、そういう意味で使っているオトナの側も「なぜ勉強するだけでは対価を得るにふさわしい価値」を「二人の関係性の中で生じさせる」ことができないかを明確に意識しているわけでもないようです。もし先生が県の公務員なら、彼は「市場」から金銭を直接得ているわけではありません。誰かが「市場」通じて「生じさせた価値」を「分けてもらっている」だけです。すなわち公務員は「価値の創造行為には直接には従事できない場所」で生きています。もし先生の側が「ちゃんと分かっている」なら、「子供は勉強が仕事」などというような誤解を生みやすい----すなわち子供の屁理屈を呼び覚ますような----説教は「意識的」に避けることができたでしょう。もちろん子供の勉強は仕事(賃金労働)ではありません。
子供が勉強する行為が「市場」において誰かに対するサービス行為として売りにだされる可能性があるなら、その子供は「勉強をしてみせるという行為」によって「それを必要としている誰か」から「市場」を通して「代価」を得ることができるでしょう。
中学生がいくらスポーツ大会で会場を沸かせても、「スポーツの試合を見せて代価を取る」というシステム上でそれを行わなかったら、すなわち自分たちの振る舞いを「市場化」できないなら、「疲れること」をどれほど行おうと「代価」は得られません。
同じように主婦の家事労働も「市場化」されていない場所で行われている限り、自分の息子や娘が部活で夕方遅くまで一生懸命になって毎日くたくたになって帰ってきても「1銭にもならない」のと同様に1銭にもなりません。それなのに、「そのような場所----市場化されていない場所----における振る舞いに対する代価はそもそも計算できない」ということが分からない人々でこの世界は埋め尽くされているのです。21世紀の今日になってもです。
多くの人が「お金とは何か」ということに関して明確な概念を持っていないからです。学校でも教わることはありませんし、もちろん義務教育の教科書にも書いてはありません。これは本当は恐ろしいことではないでしょうか。「歴史教科書の改悪問題」は文書的に追っていけますが、このことに関しては「問題の存在自体」が「意識化」されたことがありません。だから「この問題」に関しては、自ら知識人だとか、保守の思想家だとか教育を再生させようだとか軍事評論家だとか言ってうぬぼれている人も、実は「子供並み」の「社会感覚」しか持っていません。にも関わらず、彼らは「自分の社会感覚は子供並みだ」という自覚なしに生きています。恐ろしいことではないでしょうか。それで皆、今回は、すわ二大政党制だとかなんだとか言って、騒ぎあっています。
日本の官僚自体がそのことをまったく理解していないと思われる「事件」がかつてありましたが、それは大部分の日本人にとって「官僚の錯乱事件」であるとは認められませんでした。マスコミも殊勝な顔つきで官僚のリポートをただ黙って紙面に載せただけでした。これは日本政府が錯乱したのではないかと思われる事例です。
かつて政府は「家庭内での主婦の労働賃金」を計算して発表したことがありましたが、私はその記事を新聞で読んだとき、政府機関は錯乱したのかと驚愕いたしました。
主婦がお隣どうして「奥さん業」というサービスを提供する会社を興し、つまり他人同士で「奥さんを交換しあって」それぞれいままで自宅で行っていたのと同じ行為を「他人の家」で「仕事」としておこなえば「そのサービス」を必要としている「相手の家族」から「対価」を受け取ることがで きるでしょう。けれども、政府は「計算できるはずのないお金」を算出し、発表したのです。それは彼らが「価値の創造行為なしに代価を得ている」という「特例的な位置」にいる「公務員」だからかもしれません。彼らは「労働に対して対価を得ている」とは思うでしょうが、価値を生んでいるわけではない、すなわち「富を増やしているわけではない」ということが自覚できないままで生きているのです。
なぜこんなことが起こっているのでしょうか。あきらかに人々の(注1)労働と対価に関する観念が混乱しており、人々はただなんとなく「どこかで何時間かあれこれ動きまわると金がもらえる」と思い込んでいるからでしょう。しかし「事実はそうではない」のです。しかし、そういう根本的なことが分かってないという自覚がないにも関わらず、こういう人々が新聞を読んで世間話のついでに世界の経済問題をも論じているのです。彼らはものすごく難しい話をしています。
世界経済問題はもちろん「問題」でしょう。しかし「世界規模の問題」を論じる人たちが、もそもそも「お金に対する誤った前提と先入観」に染まったままだという「自覚」がないということは「いまだ隠れたままになっている恐ろしい大問題(精神問題)」なのではないでしょうか。
(注1)ルドルフ・シュタイナー「労働が直接対価を生むのではない」「労働を何かと交換することはできない」参照
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最近(2009年7月)になって----これは大変に下世話な話題ですが----またまた「分かっていない主婦」のおろかな振る舞いについてネット記事が出ていたのにびっくりしたので、こうして昔BBSに載せたことのある記事を一部書き直して再掲することにいたしました。以下の記事参照。
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