私の地元にはN高等学校という県立の進学校があるが、この高校は昔から「センター試験を受ける必要のない生徒たち(私立専願者や就職希望者)」にも「強制的」にセンター試験を受けさせている。「なぜそんな無意味なことを先生たちは君たちに強制するのか?」とたずねても、生徒(彼女)自身にもよく分からないらしい。
「こういう不景気のおり、親だって<無意味な出費>はしたくないだろうに、君たちの親はなぜ学校に文句を言わないの?」
こう突っ込みを入れたら、
「そうしないと学校の先生が内申書を書いてくれないから」
と、「頭のいい子供たちが集まっているハズの学校」の生徒が答えた。
のちにテレビニュースで「センター試験の受験者数」が前年度と比較されながら発表されていたが、私はそれを見ながら「実数(真の希望者数)は違うだろ」とつぶやいた。学力学力と騒ぐ人々が多いが、「身近な不正」さえ正せない「社会主義的世界」で育てられている子供たちが、「新しい世界を<力技>で創造できる」だろうか。
こういうまやかしをやっている「地方の県立進学校」はなにもN高等学校だけではあるまい。教師は「誰かが決めた学校の方針」に従うだけで、争い事をみずから起こす気もないらしい。組合に入っている教師たちは「生徒と親たち」の利益----というより理屈に合わない出費の停止----のためには戦わない。
「学力システム」とは違う世界で生きなければならないスポーツの世界では、「若い人々」が「独自の教育(訓練)システム」によって「世界という舞台」に登場してくるようになったが、この現象には「育てる」という行為に関して、ひとつの暗示があるのではないだろうか。
日本のなかで「もっとも社会主義国家的形式規範主義で運営されている世界」こそ「知育界」なのだった。こういう「社会主義的振る舞いと思考態度」のなかで育てられた人々が官僚になって、日本の教育制度を立案している。そうして有識者と呼ばれる人々は「そのような社会主義的システムの中における学力向上問題」に強迫神経症的にかかわり続けている。彼らは「自分を含め利口だと思っている人々」こそが「病気」なのだと認識することができない。
彼らはいはば、ジェット戦闘機に使う「真空管システム」をもっとよりよく改良すべきだと叫ぶソ連の技術者たちのようである(これはたとえ話である。アナログプレイヤー技術とCDプレイヤー技術の比較話で語っても同じである)。「真空管システム」は前時代の思考方法によって生み出された技術であるということに気がつかないうちに、対抗国家は全トランジスタ式のジェット戦闘機を飛ばしていた。
「真空管システムを温存した教育システム」で、「知力を自由に解放できる能力」を「育てられる」だろうか。「知力を現実に適応させる力」は「知力」だけでは発動しない。たとえば、パソコンのソフトを駆動させるには「電力」がいる。ある時期に、ある新しい目的を独自に発見し、その解決のためにパソコンに電力を入れ、対応するソフトを見つけ、無ければ開発し、それをふさわしい時期に駆動させうる「自我をもった存在」が必要である。これは「日本の子供の学力問題」ではなく、「彼らを指導したがる有識者と呼ばれる人々」が「もっと大きなフレームワークがあるということが認識できるかどうか」の問題なのだ。
「日本の教育システム」という「社会主義的振る舞いと思考態度の園」からの脱出、これがなければ「日本の経済」も本当にダメになってしまうだろう。
参考文献
国家が教育を管理すること(ルドルフ・シュタイナー)PR