「資本主義」という言葉を、「罵倒の対象となる言葉だ」と思い込み、その19世紀以来の学問的迷信を無意識のうちにもあとなぞりし、いまだに「善なる精神、善なる態度とはこういうものだ」と機械的な発言(反射行動)を繰り返している人々がいる。
彼らは「実際には、はなはだ信用ならない19世紀以来の西欧知識人出自の刷り込みを受けている」とは、つゆほども思わず、あの大戦争の後、今日に至る過程において、これほど世界の経済状況が変貌してしまった後になっても、いまだにまったく、「そう(世界経済は変容した)なのだ」と気がつかず、相変わらず半世紀前の西欧知識人たちのうぬぼれ(経済に関わる教科書的反応)を受け継いだまま、それが「知的な人物たる者の旬の感じ方」であるとの勝手な思い込みからのためか、とうの昔にすぎた〈旬な振る舞い〉をいまだに、それで通用すると思い込んで何か経済関連の事案が思い浮かぶたびに「既視感を感じさせる、通り一片で気楽な批判」活動にいそしんでいる。彼らはそういう、「不誠実者たち」、「大変な知的不道徳漢たち」である。
彼らが「資本主義」の対案としてマルクス・エンゲルスは「社会主義・共産主義」を提示したと、いまだに思い込んでいるから、彼らは呪縛を自らの力で解くことができないのである。
資本主義の対義語は社会主義・共産主義ではないということが、どうして偏差値の高い大学に入学できたとうぬぼれている人々----さらに言えば大学で日本の青年たちを指導している「経済学の教授たち」から出てくることがないのだろうか。
資本主義をその字義通りに解釈すれば、資本主義とは「資本を元手に行う経済活動」にすぎない。だが、日本においては中学の歴史や公民の教科書を見ればわかる通り「利潤を目的に活動するのが資本主義だ」と書いてある。その直後には「私企業は利潤を追求し、公企業は利潤を追求しない」などと、中学生の道徳意識を誤解させるような記述まで平気で教科書作成者たちは書いている。
公企業を倒れずに維持させているのは、「私企業で働く人々が差し出す利潤なのだ」とは、思いもよらないような奇妙な記述である。電気、ガス、輸送機関、多少とも公的性格をもった企業は利潤の獲得に悩まないでいられるのだろうか。現在日本においては「かつての公企業」が「私企業」に順次転換中であるが、それらの企業体がかつて「教科書上の分類」では公企業であった時期においても、彼らが利潤を出すような経済活動をすることは自明の行為であったはずなのだ。やればやるほど膨大な赤字を出す公企業とは何だろうか。国民はそのような「金銭欲のない、利潤獲得に淡白な、欲望にまみれていない企業の存在」をありがたがるだろうか。
中学の公民の教科書に何と書いてあれ、公企業であろうとも、利潤を出せないような企業は、つぶれるしかないということが、中学の公民の教科書執筆者たちには、いままでよく理解されてこなかったようなのだ。このような学者たちから「非現実的で空想的な経済社会」を学ばなければならない、現代日本の中学生は哀れである。
「資本を元手に生産活動を行う」のが資本主義なら、社会主義・共産主義は何を元手に生産活動を行ってきたのか。彼らも「資本」を用いたのではなかったのか。
社会主義系の学者は、当時の「労働者を搾取していた民間主義」を資本主義と呼び、同じように「資本のお世話」になっておきながら、国家(官僚という黒子たち)が管理する経済体制----すなわち「国民全体から搾取し、国民の精神生活に介入と強制と抑圧を繰り返してきた国家主義」----は「資本主義」とは呼ばなかっただけのことなのだ。この「習慣として流通している〈漠然とした資本主義の定義付け〉」は、実はまったく「学問的なもの」ではないのである。
事実は、「資本を元手に生産活動を行う資本主義」というものがあり、その下位概念として、「そのとき誰が資本を管理するのか」という区分によって、いわゆる現在流通しているところの「資本主義」と「社会主義・共産主義」に分かれるにすぎない。
19世紀から20世紀にかけて生じたのは、「資本の管理人を誰にするのか」に関して行われた、東西勢力のつばぜり合いだった。
私の修正案はこうである。
まず近代を特徴づける「資本主義という生産方式」が存在する。
その下位区分として、「資本の管理を民間の自由にまかせる資本主義」を「自由主義」「民間主義」と呼ぶ。そして「資本の管理を国家にまかせる資本主義」を「社会主義・共産主義」「国家主義」と呼ぶのである。
時代の進展とともに新しい問題や課題が「資本主義」=「自由主義」=「民間主義」に出現するだろうことは予想できることである。だが、その「新しい事態」を、19世紀以来の不誠実な西欧のインテリたちの「定型句」でおざなりのような批判ばかりを繰り返して、本当に実効性のある批評ができるだろうか。
「資本主義とは何か」ということについても、現在のような奇妙な道徳感覚にまみれたおかしな通俗定義を土台として議論をするのではなく、「正しい観察スタンス」が必要である。だが、これは教科書秀才的なスタンスで、このような「現実的問題」に接する限り無理な話である。「労働者たちが幸福になるためには教科書に書いてある通りにすればよい」、と思い込んで世界を崩壊させかけた社会主義インテリたちの愚かさを経験したあとでさえ、人々はなおも自分の精神に巣くっているものに自覚がなく、 その精神が、まるで乳酸が蓄積して硬直している筋肉のようになっているということに気がつかない。「硬直した筋肉」は触れると痛みを発するが、「硬直した精神」は痛みを発してみずからに警告することがない。そのようにして人々は、1世紀、またもう1世紀とみずからを欺いてきた。
「勉強の仕方を間違えると愚鈍になる」と書いた人が西欧にいたが、確かにこの数世紀、近代人は勉強の仕方を間違えたばかりに、愚鈍化したのだった。
日本の教育世界もまた西洋と同じ愚鈍化の道を辿って----しかも「その教育実践と評価システムにおける形式主義」は「現実の西洋社会のそれ」をゆうに凌いでしまい「滑稽の域」にまで達している(韓国の「それ」はさらに異様だが、もちろん「日本の病」と同系統の病気である。)----今日にいたっているのだろう。日本人が正しい道----教育思想の再構築とその具体的実践方法の再構築の道----にみずからの判断によって軌道修正するのは、いったいいつの時代になるだろうか。あるいは100年待っても、それはやって来ないかもしれないが、そうなるとひどい世の中になっていることだろう。しかしまあ、その時は、私は墓の中から、それを嘆くことしかもはやできないのだろうが。
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