ここ日本においては、学力(=受験能力)をつけさせるために、金銭に余裕のある家庭は学習塾に自分の子どもを通わせるが、そもそもこの手の民間の教育機関(国の定める法的な私立学校でさえない)に「就職する」人々は、大学出の者が大部分だろうが、教員免許(いわゆる国が付与するお墨付き)そのものを持っていない者が多いという事実を、学力低下を憂えている国会議員たちは理解しているだろうか。
単に「学力をつけさせる」というだけなら、「勉強を教える人物」に「教員免許」なんぞいらない、という厳然たる事実があるのだ。そして免許を持たない人物が、「国の定める学校という機関」の内部で働いている教員免許を持っている人物よりも有能な知識(あるいは解答技能)伝達能力を持っている場合が多々あるという、「教員免許制度の意義」からすれば「矛盾」した事態が、ここ日本で進行中である。
教員免許とは何だ。
回答:それは国が法的に定める教育機関への「就職試験」を「受けることができる」という「お墨付き」にすぎない。それはこれから教員をめざす者が「試験会場」へ入場するための「特別許可証(パス)」のようなものである。民間の学習塾講師になる資格にはそのような「国家的制約」はない。ただ「国家が法的に定める機関」に「就職」したいなら、教員志望の若者は行政機関に向かって「教員免許」を提示しなければならない。「このパス」を持たないものは「教員という(地方公務員)採用試験そのものが受けられない」。ただ、それだけのことである。それは「能力」というより、「公的機関への就職行為という利害」により強い関係性を持ったものにすぎないのだ。
だから「更新できないことによって免許を奪われる」ということは、「公的機関で仕事ができる権利を失う」、すなわち「(公務員)職を失う」ということである。しかし、「人をやめさせること」において、「このようなやり方」は非常に「もってまわった悠長なシロモノ」であることは民間の感覚からすればすぐに理解できることだろう。それもこれも、教師になるには「免許」がいる、という国家的制約があるせいなのだ。各自治体は「自分たちの地元」で働いてもらう教師を「自分たちで自由に選べない」ように今の制度下ではなっている。市にも町にもそのような権限がないからである。
問題は更新制度によって「不適格な教師を10年ごとにあぶりだす」、などというような「悠長な話」ではなく、「伯楽」すなわち「判断し、判断に責任を負い、対処できるハラを持った人物(人事を扱う者)」が「公的な世界にはいない」ということなのだ。(民間企業であれば、問題が発覚すれば、さっさと指導があり、場合によっては首にされる。)
医者は「国家資格」なしでは開業できないが、こと教育行為については、民間の学習塾が、その成果を示してきた通り、「教員免許」なしでも、「教育業」は「開業」でき、また実際に成果を挙げてきたのである。
教師は「教育学部(あるいは教員免許取得希望の他の学部生のために定められている免許取得のために大学内で取得すべき単位として定められた特定講義内容など)でなければ学べない、まさに教員としての秘術のようなもの」を特に「教育学部」で----他学部生なら「法によって定められた免許取得にまつわる特定単位の取得」によって----学ぶことで、他の一般人たちと比べて特に「子どものエキスパート」になっているわけではなのだ。
それなら、「彼らは大学で何を学んでいるのか」、あるいは、そのような大学内における講義の受講を必修として教育学部生たちに要求する行政担当者たちは本当に、「これから教師になるべき学生たち」が教育のエキスパートとなるために身につけなければいけないさまざまな「要素」について理解しているのか。
それが問題である。
民間の教育機関に勤める人々は、その機関の内部で淘汰されている、分かりやすくいうと、無能な講師は、そこを離れざる得なくなるのだ。問題は「国の定める機関の内部」に「自浄作用が働かない」ということなのだ。それは一般の公務員の内部改革がいままで遅々として進まないできたこととパラレルな姿をしている。
公務員は「組合員」として公務員同士の利害を守りあうからである。教員の採用が都道府県単位になっているのも問題である。今後は採用および解雇問題の責任の所在を市町村単位へと狭めて、教師の採用評価問題にしても、互いに顔の見えあう環境において保護者たちを代表する者たち(数名)こそが「その現場」に加わり、教育行為における対等な責任者同士として意見を述べあいつつ「双方が土台から責任を負う」べきなのだ。ちょうどこれから裁判員制度が始まり、「一般同胞の罪を民間の一般同胞たちが裁く」ように、人々は、もっともっと現場に責任感覚を持ち、積極的にコミットしていくべきなのである。
教員養成と採用権の問題、これを21世紀の日本の教育問題の最大の課題とせよ、と言いたい。
今やっていることは政治問題(右からの左への意趣返し)にすぎない。それで子どもがりっぱに育てられると思っているなら、大間違いだ。
政治ではなく、教育思想の土台に目を向けようと人々が本当に決意しないかぎり、人々は今後も「人として」たいした成果はあげられないだろう。
教員免許更新制度の暗黒面
時勢の変転
無題
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