英語教育を小学校時代から義務化するかどうかについて揺れているが、私自身は外国語教育は小学生からやることに別段反対ではない。人々はいまだに「どのように教育を行うべきか」ということについて「関心」を持とうとしない。そして「どのような成果」を「どの時点」でふりかえるべきなのか、ということに関しても長期的な観点に立って眺め直すことができない。
たとえばもし今30歳のあなたは、15年前に学習し、試験された暗記事項を----その出来不出来の問題で、定期試験の前あるいは後に親子喧嘩までした「勉強内容」を----今どれだけ覚えているだろうか。15年後には忘れてしまっても、一向に自分も親も困らないトリビアルな知識を(15年前は烈火のごとく起こった親なのに)、現代人はなぜ「膨大なエネルギー」を使って「試験させられる必要がある」のか。そしてなぜ「長期的視点に立って眺め直せば無意味な行為」のなかから「点数」あるいは「偏差値」として析出化してくる「不思議な数字」のみが、もっとも人々の関心の的となって現代日本人の精神生活を支配続けていることを人々は許しているのか。
日本の教育界の異常さというのは、国家の肝入りで導入された「教育計画」や「教育行為」が時とともに「試験化」されて(つまりロボット思考化し)、すぐに「短期短期の評価の問題をうんうんすることばかりにエネルギーをうばわれてしまう」ことである。
たとえば道徳の問題がある。「人は助けあって生きなければならない」、とは学校でも学習することだろう。しかし児童生徒たちは結局教師たちから説教という形で「言葉を聞かされるだけ」である。「徳」に関わる問題も、現代の教育現場、教育システムで、教育行為化されると、「知識を試される問題」「解答技術に関する問題」に変貌し、その子どもが現代の公教育の影響下に「現実」に他者に対して思いやりのある人間になれるかどうかにかかわりなく、試験化されることで「教育行為」と見なされるのである。
今行われている公教育(義務教育)とは「そのような性質」のものである。
他者に思いやりをもたせたいなら、教科書を使って「文部省で指定された一定時間」を授業に割き、子どもに書かれてあることを朗読させて議論し、教師が生徒に向かって説教をするよりも、まず「現実的な能力・技術」をちゃんと子どもに身に付けさせる方がのちのち「そのとき身につけた知識と技能」が生きるのである。頭はいいが実際には酷薄な少年少女でも、手話を駆使することができるようになって義務教育を終えることは、頭がいいだけで卒業させられる現代の少年少女よりも「その能力を現実に有しているというだけでもずっと社会のために生きることになる」からである。
たとえば、なぜ、人々は手話を義務教育時代の9年間、必修にし連続して学習させないのか。「この能力」は----それは子どもによって新たに身につけられた文字の読み書きと同じような種類の「対話能力」なので、もはや「試験のための知識」ではない----15年たったら、覚えていてもいなくても誰もこまらないようなトリビア(無駄知識)ではない。
大学の入学試験で福祉について上手な論文がかけても、手話でコミュニケーションできない人よりも、言葉を発することができない人々から助けを求められたとき、「相手の言うことを理解できる普通の人」の存在の方が、本当の意味で「徳のある人」ではなかろうか。現代教育は「公的にうまいこと(建前)を紙の上に書けるようなロボット人間ばかり」を育てている。システムがそうなるように人々に強いているからである。
事件現場の警察官も消火活動中の消防士も、そして医師も看護師も義務教育中に身につけた「対話能力」で、とまどわずに手話を必要としている人々と「簡単な対話」ができる、「義務教育中」に学校で身につけた能力は、のちの社会生活の現場でも「社会人の職種」に関わりなく、生かされるのである。そしてそれらの知識や能力は「学校間あるいは学校内部の紙の上だけの空想的な評価競争に資するため」ではなく、「人々の現実生活の上にあらわれる力」なのだ。それこそ「生きた知識(能力)」ではないだろうか。
そういった「義務教育期間を生きた知識と能力の習得の期間とする」ために、学校教育体制はどうあるべきなのか、授業方法はどのように変容すべきなのか、そのためには「土台となる教育思想」は今後どのような変容をとげるべきなのか、いろいろと考えることは出てくるはずである。
「エネルギーの無駄使い問題」は何も「CO2問題」だけではない。「近代教育」というのはもうひとつの「精神エネルギーの無題使い問題」----おおっぴらに行われていながら、「その問題」がいっこうに人々の目の中に入って来ない「隠れたエネルギー問題」なのである。
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