日本の共産党・社民党を代表とする左翼政党、あるいは大陸・半島系の中国共産党、朝鮮労働党という社会主義・共産主義者たちにとってもっとも「あって欲しくないもの」こそ、日米の政治的軍事的蜜月行為である。そして、戦前戦後を通じてのマルクス主義的情念の極東地域への影響力の拡大につれ、彼らにとって、極東地域における日米の政治的理念的親和力の分断こそが自分たちの政治的理想(あるいは情念)実現の達成のために、もっとも力をいれるべき政治目標になったのだ。だからこそ日本の左翼人たちは「日本はアメリカの奴隷」「日本はアメリカの植民地」などというような、よく考えれば「よくもこれほど同胞を愚弄する言葉を吐けるものだ」と思うような言葉を同胞に向かって平気で吐けるのである。保守を自称する側にも同様の言説的振る舞いを行う勢力があるが、それは彼らが実際には社会主義的な経済感覚を土台にすえているからである。彼らは「自分たちのように感じない同胞は馬鹿だ」と思っている。彼らは「人間の振る舞いには必ず裏がある」と思いたがる。だから陰謀論をさまざまに空想するのが大好きな人々でもある。右自称であれ左自称であれ、彼らの精神上の本質は同類なのである。だがそもそも彼らがそのような言葉を吐くことによって間接的に同胞を愚弄してきたのは、なぜなのだろうか。
本当に正直になって考えてみてほしい。日常の暮らしの中で「アメリカの抑圧行為を実感している日本人」などほとんどいない。現代日本人はほんとに自分勝手に生きている。もしたとえばパレスチナ人たちのように日常が日々戦いで、「誰が自分たちの同胞を殺しているのか」----それは「抑圧」などという抽象的言葉でひとなぞりできるような暮らしではないだろう----日々実感しているなら、別段左翼人が大声を上げなくとも、人々は「自分たちは他国に押さえつけられている」とおのずから実感するのである。
まさしく普通の日本人の「現実の生活実感」がそうであるからこそ、そのような煽り言葉は自分のことを多少はものを考えることができると自惚れている人々にしか届かないのである。そういう人々は「世界は人間の抽象力によって組み立てられている」と錯覚したがる。彼らにとっては「世界の現実を抽象化して眺めなおすことこそ最も楽な振る舞い」だからである。そしてそのような抽象的な言葉を受け入れる能力のある、実際には自分の現実的な生活場面では夢のようにぼんやりと生活している「本読みたち」の多くが、それをただ知的に受け入れる行為を「現実的行為」と思い込んでいる。だがそれは実際には夢のなかでの行為のように全体像がぼやけているはずなのだが、彼らは「世界を認識するにはそれで十分だ」と思っている。
世界中にバラバラに散らばって生きている左翼人と、そうだという自覚はなくとも、彼らと世界感覚の情念を共有しているもっと多くのシンパたちにとって、アメリカという国家は神(のような存在)になってしまった。彼らはアメリカの力を崇拝しきっている。そしてそれを地面に引きずり落とそうとするのである。アメリカはマルクス・エンゲルスを淵源とする共産主義的世界観、共産主義的情念によって自動的に「理論上、敵であらねばならない存在」に祭り上げられたのである。
アメリカはなぜ極東にいすわり続けているのか?
あなたは「すぐに答える」ことができるだろうか。あなたが中学生や高校生だった頃、学校の社会科の左傾教師は教科書が戦後の安保条約の項目に来たときに、あなたに項目だけは暗記させながら、その肝心な意味をはっきりとは伝えなかったはずである。彼ら社会科教師は日本がアメリカと同盟を結んでいるのは「共産主義者が極東アジアの精神生活を蹂躙しているからだ」とは言わないのである。それよりもソ連、中共、北朝鮮、そして国内の共産主義者の主張を教室内で代弁する。ベトナム戦争のような例を挙げ、社会主義・共産主義国家との戦いにおいて、アメリカが世界中でどんなひどい仕打ちをしたかを強調してきたはずである。
共産主義者はこういうだろう。
アメリカはなぜ極東にいすわるのか。それは日本を含む極東アジアを軍事的覇権によって「支配する」ためだ と。だが、そうではないのである。しかしもし、あなたがそう思い込んで今日まで生きてきたなら、あなたは完全に「共産主義者の世界観で世界を眺めてきた」ことになる。アメリカはなぜ大戦後すぐに朝鮮戦争を行い、ソ連と冷戦に突入し、中共勢力と対峙し、共産ベトナム勢力と戦争をしたのか。それはまさしく、「全体主義思想の一分枝たる共産主義思想がアジアの精神と生活を支配しているから」なのである。それがアメリカ人の奉ずる近代精神と敵対してきたからである。それが彼らに国益に反すると感じさせたのである。だから逆の政治状況が出来すれば、すなわちアジアから全体主義的情念あるいは共産主義情念が一掃されれば、アメリカは日本や韓国に自国の軍隊を駐留させておく意味を失う。それはアメリカにとって不利益なことなのだろうか。
日本と異なり、彼らは大戦後、共産主義国家群との戦いでたくさんの自国の息子たちを失ってきた。しかしこの「反共という戦い」は本来、我が父祖たちがヨーロッパ人たちによるアジア地域の植民地化に対抗するという目的のもとに樹立した明治政府が、「その本来の目的」とは別個に、その世界問題の出現に気がついたところの、「もうひとつの日本の立ち向かわざるを得なかった新たな目的」であったことを、戦後の日本人は忘れてしまっているのである。幕末期から戦前までの日本には「二つの課題」があったということを誰も声を大にして子供たちに教えようとしてこなかったのが、これまでの戦後日本である。日本が戦前に治安維持法という法律を持たざる得なかった原因を現代の左傾教師たちは180度解釈を変えて子供たちに伝えている。歴史の組み合わせや結果が異なっていれば、アメリカ人ではなく、日本人自身が「大東亜共栄圏の自由経済活動を侵す反逆者」として共産ベトナム軍と戦争していたかもしれないのだと戦後の日本人は考えたことがあるだろうか。
アジアを混沌に陥れたヨーロッパ発の情念は新しいアジアの未来のために払拭されねばならない。またそうなれば、われわれとしても、アメリカという国家のこれまでの「血の苦労」をねぎらい、丁寧な挨拶とともに国内からのアメリカ軍の撤退を平和裡に進めることができるのである。もはや日本政府はアメリカ政府に対してはっきりとこう進言することができる、「極東アジアの精神生活は新局面に入りました。こういう状況ですから、もはや貴国の軍隊がわが国に駐留する意味を失いました。このようにして極東人の精神生活と政治状況に変化が生じた以上、軍事面においては今までとは別様の付き合い方になるのは必定かと存じます。新しい極東アジアの出現は貴国の国民による軍事負担を軽減できますし、そのことでまた今後はこころおきなく、アジア地域においてビジネス活動も展開できるでしょう。これは経済立国たるわが国にとっても願ってもないチャンスであります。戦前は互いに死闘を演じ、大戦後は互いに、ずいぶん共産主義者相手に苦労しました。これでようやくひとつの長い歴史の節目、新しい展望を内包した歴史の節目に到達できたと思います。今後も貴国とは親しくよいお付き合いを願いたいものです」と。 現在の状況が進展するかどうかは、「アジアに生きる人々の自覚と精神生活の変容」にかかっているのである。
以下の写真を見てもらいたい。
日本共産党が日本全国に張っていたポスターである。 (2004年時点)
いつまで続ける
アメリカいいなり
安保をなくし
ほんとうの独立日本に
と書いてある。しかし、これは詐欺師の煽動文句なのである。アメリカが極東にいすわっているのは、「このような共産主義的世界観に立脚した政治煽動家たちによって極東全体が包囲されているから」なのである。いったいこんな不思議な茶番劇がまたとあるだろうか。「アメリカ軍駐留の原因になっているモノ」が「アメリカよ、ここから立ち去れ」と叫んでいるのである。
彼ら共産主義者の主張するように「アメリカ軍を極東から立ち去らせたい」なら、その「もっとも効果的な解決方法」は、そのように主張する彼ら自身が「極東から消えてしまうこと」なのである。だが彼らは「共産主義者なしの極東からのアメリカ軍撤退」などけっして容認できない事態だろう。
だが、これこそが左翼勢力が戦後一貫して「特別政治的に生きてきたわけではない----そんな必要もない----大部分の日本の普通人たちの目の前から隠し続けてきた極東問題の解決方法」なのである。
われわれは「極東からのアメリカ軍撤退後」の世界問題をも考えることができなければならない。なぜなら、いつになるか分からぬにしても中国共産党が倒れ朝鮮労働党が政権を失うのは必然事項だからである。中国の民も北朝鮮の民も、自分たちの選択意志で選んだのではない政党人たちによって自分たちの精神生活を支配されたいとは思っていないのだから。
中国人は民主主義を知らないのか。
そうではない。イギリス統治下だった香港はイギリス直伝の民主的な統治を体験しているのである。彼らは歴史的に実体験としてイギリス人に統治と自治の方法を訓練されてきた。香港人のなかの選良たちは実際にイギリス政府によって選抜されてイギリス本国に招かれ、自由主義精神下における統治とはいかなるものかを学び、香港統治のための訓練を受けてきたのである。実際に多くの一般の香港市民がイギリスの影響下に民主的な自治がいかなるものであるかを味わってきた歴史体験がある。人材はいるのである。また「中国共産党解体後の人材をどこからさがせばいいのか」、という質問もナンセンスである。かつて明治政府が敵側の徳川方から人材を拾いあつめたように、元中国共産党員の中にも人材がキラ星のように存在する。彼らの能力を「新しい中国」の統治に生かさない理 由はないのである。そしてそういう事態が出来すれば「極東の軍事問題」は相対的にその重要度を減少させざるを得ないのである。なぜならそうなれば、われわれは政治的-精神的にも経済的-物質的にも真の意味で共同することができ、ゆるやかな経済共同体をアジアに出現させることができる可能性を得るからである。だからこそ、新たに出来するであろう「未来の課題」のために、「今われわれが立ち向かい解決しなければならない政治問題-精神問題とはいったい何なのか」、極東アジアにおける「どんな政治的-精神的状況がそのような未来を阻んでいるのか」ということをよくよく思い出して、けっしてその大目標を忘れることがないように、しかと肝(ハラ)を決めておくべきなのである。
(注)かつてBBSで公開した拙文を改訂再掲示させていただきました。
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