「ゆとり教育」批判、とくに右の側からの批判が多いですが、だいたいこれらの人々は「国家指導体制主義者」ですから、なんでも「国から国民へ」という流れで行えば、うまくいくと思っています。そういう発想を究極的に押し進めたのが、実は近代の共産主義思想でした。国家主義者が共産主義者に似ているのは、国民の精神生活を、すべて国家中心で考えるという、近代以前にはなかった、まさに近代の初期を破壊と闘争の世紀にした「近代思想」にいまだにどっぷりとつかっているからです。近代になって登場した国家主導の義務教育体制というのは、実は非常に社会主義体制的な性格を持っているということに人々は気がつきません。国家が管理する教育体制をめぐる左右の対決とは、そういった本質-国家主義者どうしの喧嘩でもあります。だから、よくよく注意して聞いていると、右側から教育批判をする人の中には、共産主義的な国家主義から導き出された教育思想とよく似たことを言う人がたくさんいることが分かります。彼らは教育問題では中国や北朝鮮の国家指導者たちと大変に意気投合できるはずです。
学校の授業時間数は若干減りました。ですが子どもたちは学校から自宅へ帰ったら、みんなで広場に集まって「勉強もせずに遊んでいる」でしょうか。そんな30年前なら当たり前だった風景はどこにもありません。では子どもたちは「どこに消えてしまった」のでしょうか。「学習塾」です。そして経済的に余力のある家庭の親は、自分の子どもを学校から帰宅させても、ほってはおきません。どうぞ調べてみてください。そのような子どもは学習塾以外にも別種の習い事に出かけています。1週間のすべてが何らかの学校外活動で埋まっている子どもがどれほどいるか、「学校の授業時間が減った」と批判する人々はちゃんと理解しているのでしょうか。
今の40代以上の年齢の人は思い出してください。すでに30年前にも学習塾はありましたが、その当時の習い事といえば、まず人々が思いつくのは書道塾とそろばん塾でした。人々はそれらを「習い事」と呼んでいました。(そのほか芸術系ではピアノ教室、身体系では柔道・剣道・空手・合気道の道場などに通う子どもも若干周囲にいましたね。)私が中学生のころには、もちろんまわりに学習塾に通っている子どももいましたが、全体的な数としては多くはありませんでした。それは都会を別にすれば、どんな地方都市も似たようなものだったでしょう。もちろん東京をはじめとした大都会の子どもをめぐる環境もいまとはずいぶん異なった「ゆるい環境」だったに違いありません。いったい30年前の子どもの「総実質勉強時間」と今の子どもの「総実質勉強時間」の差はどのくらいでしょうか。学校から帰ると、空き地なんぞに飛び出して、いまの子どもたちのように同学年同士ではなく、いろいろな学年の子どもがひとつに集まってワイワイ遊んでいた子どもたちの「総実質勉強時間」というものはどれくらいだったのでしょうか。
現代の子どもたちが遊び呆けているなどというのは、まったく実情を知らない人々の意見です。本当にそうだったのなら、私も子どもたちはもっと勉強すべきだと言うことに躊躇しないでしょう。しかし今本当に起きていることは、30年前の子どもにはなかった事態です。すなわち、「子どもの生活時間(精神生活)」の「大人の側からの徹底的な拘束と管理」です。
30年前の子どもは学校から帰ると、現代のような強度な大人の側からの管理を受けませんでした。小学生の時期は特にそうです。現代の親は30年前の親よりもたくさんの子どもの生活時間管理を行うように実はなっています。ただそれは、「お金を払って子どもの生活時間を別の施設管理者に預ける」という方法をとっています。子どもと「精神的に接する時間」というのは、30年前に比して、逆に減っています。もはや30年前の家族の日常風景のように「毎日家族全員で夕食をとる」などという習慣を維持できている家庭は少数派になっているのではないでしょうか。しかも離婚家庭の増加で、学校の教師は離婚経験者の親を持つ児童生徒をたくさんかかえています。現代の日本には一つのクラスに両親の離婚経験をした子どもがたくさんいることも普通の状態になっています。教師はそのことも理解して子どもに接していかなければなりません。
どうして、子どもの教育に関して----子どもの「精神生活」を取り巻く環境の激変に関して----「30年前とは変化している現実」をちゃんと「直視」して、「新しい状況から新しく考え直す」ということができないのでしょうか。現代の教育問題を左右の政治対決として語ろうとするものは、事態をまったく見誤っているのです。単に学校の授業時間数を増やせば学力問題が解決する、というのは短絡でしかありません。問題は「子どもの学力問題」ではなく「子どもの精神生活問題」なんだということが分からない限り、彼らは本質的に国家主義者として、「子どもの精神生活を荒らす敵」として振る舞う道を今後も進むことになるのでしょう。ならば、私は子どもの側についてそのような「国家主義者たち」と戦いたいと思いますよ。
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