正しい歴史認識……という「言い回し」もまさに「戦後的言い回し」ではある。「正しい歴史認識」はいかにして行うのか。「教科書に〈正しい歴史認識〉を記述し、それを教師たちに学校で教えさせればよい」と戦後的空間を生きる平均的日本人は思う。「勉強馬鹿の時代」を象徴する、人々が安易に陥りがちな結論である。中国・韓国・北朝鮮という極東の勉強馬鹿(極東的近代学校教育システム礼讃者)が集う国々の統治者たちも、日本の平均的日本人と同じように「自国民の歴史教育」については「なおさらそう思って」いる。
「日本人は〈日帝時代〉に日本がやったことを私たちが習ってるようには学校で習うことがない」と韓国のテレビ番組でインタビューに答えたのはユンソナだが、これは以前、白人首脳の前で「日本人が主張するようなことは高校の教科書には書いていないんですよ」と答えて失笑を買ったノ・ムヒョンと同じメンタリティーである。(注:そもそも「日帝時代」という用語はなんぞや。日本の歴史教科書では使用しない用語である。ただし日本の左翼人たちは、昔から「日帝」という言葉を使っていたようである。「韓国の歴史用語は左翼用語から採られた」という「正しい歴史認識」も韓国の学者はちゃんと韓国の中学高校生に教えるべきである。)
この「思考態度の土台」に何があるのか。彼らは「典型的な勉強馬鹿」なのだ。教科書に沿って試験され、教科書通りに解答して満点をもらい、自尊心をくすぐられてうぬぼれる、それが利口な人々が繰り返し「近代学校システム」の内部でおこなってきた「パブロフの犬体験」である。「教科書は無謬の権威」「そのような教科書を作る学者もそれを使う教師もまた権威」なのである。だからこそ「学習成績の優秀な者、そしてその自尊心とともにひそかに自分を利口者だと自負している者たちの、この病気の罹患率が高かった」のだ。左翼運動の中心主体が大学教授や大学生だったのも当然である。「彼らもまた勉強馬鹿だった」からである。
日本において歴史教科書が政治活動の道具として認識され始めたのは80年代くらいからであろう。しかし、戦後70年代くらいまでは、左翼人は子どもをオルグするのに「教科書」を特に用いてはこなかったということを現代日本人はちゃんと認識しているだろうか。
学者・学生・労働者を中心に「左翼にあらずんば人にあらず」という巨大な「正義妄想」が吹き荒れ、世情に本当の暗雲が垂れ込めていたのは、60年代70年代までであって、その頃の日本の政治上の騒乱といったら、今の世の中のような「蚊にさされたような事件」を「大げさにふれてまわるようなもの」ではなかった。
そんな「左翼にあらずんば人にあらず」時代があったにもかかわらず、当時の少年少女の精神世界はそれとは隔離(政治闘争劇に巻き込まれることから守られること)されていた。少年たちは漫画雑誌で戦争ものを読んで胸を踊らせていたし、あこがれの零戦や戦艦のプラモデルを作るのは当時の少年たちの「日常の一コマ」だった。けれども、「勉強馬鹿」を中心に「活字を通して世界像を描く」という振る舞いが得意だった人々がまさに「その勉学的振る舞い」によって、「日本たたき思想案出の急先鋒」になったのだった。「現在の日本たたき思想は、過去のある時期に日本人が極東地域に住む人々に教えた」……と私がいくら声を大にして訴えても、評判が悪いようである。「元祖」というものを自慢したがる日本人・韓国人も中学校や高校の教科書にそう書くべきである。「現在の反日思想もまた日帝支配下の日本人地下運動家たちからもたらされた。われわれは植民地時代から続くイルボンからもたらされた公教育システム(あるいは教員システム)を受け継ぎ、さらにイルボンから反日思想----政治的ごね方----まで習った」と。
中国共産党は初め「労働」の「働」の文字を持っていなかった。これは日本人が作った字で、中共側が日本の左翼本を研究して「よい字がある」と輸入した結果である。周恩来は中国で共産党に目覚めたのではなく、留学生として滞在していたここ日本で共産主義思想に出会って衝撃を受け、ついにそれまでの考えを捨てて留学生をやめ、大陸に戻り、共産党員として活動するようになったというエピソードをご存じの方がどれくらいいらっしゃるだろうか。周恩来の精神に衝撃を与え彼を共産主義者に変えたのは、日本の活動家たちだったのである。戦前から続く日本の左翼人たちの極東地域における隠然たる影響力----事象の裏側を大向こうに気づかれずに上手に駆け抜ける技術----を甘く見てはいけないということである。
「いまでも日本人が巨大なマスコミの力を利用してわれわれ民族の援護射撃、それどころか〈新手の政治的ごねくり〉の提案までしてくれるので、われわれはそれに乗っかるだけでいい」と大陸・半島人は思う。日本人は「騒がれるのに弱い」ので、オオニシとか米国記者の権威を借りておどしをかければ、またへし折れるよ、と知恵を貸すのもまた日本人だった。(とはいえ大きな見取り図から言えば、結局彼らのやっていることは、世界政治への影響力から言えば、まあ、「蚊のようなもの」ではある。蚊から血を吸われて「きゃー死ぬ、死ぬ」なんて情けない声を出さないでいただきたい。時が来たら呼吸を見計らって両手のひらの間で、パンとおしつぶしゃあいいのだから。裏に回って人の足を引っぱる能力は、古代の豪族社会の昔から日本人のもうひとつの伝統的才能であった。しかしそれを「正しい歴史認識」と言って人前で自慢する策士はいない。これはいわば秘伝の術なのだから。)
戦後すぐに「国民の左翼思想へのオルグ運動」を大声を出さずに「学校現場」で実践してきたのは、マルクス思想、マルクス的世界観、マルクス的陰謀論に魅了された人々だった。マルクス思想は、戦後治安維持法廃止によって解禁状態になり、「大学の正式の講義科目」にさえなった。戦前のサブカル思想は、「戦後体制の中で正式のカルチャー世界に格上げされた」のである。朝鮮半島は軍事政権になったので相変わらずサブカルのままだったが、その思考方法は浸透し続けたのである。そして80年代に軍事政権から民主化へと韓国は至るが、それは「韓国教育界のおおぴらな左翼思想(帝国主義理論)化」ということでもあった。戦後の日本が、「共産主義者解禁」による「日本のおおぴらな左翼化」をなし遂げたように、韓国はいつも日本のあとを数十年後れながら「思想遍歴」を繰り返している。
参考に供するために『Will』5月号(平成19年)に掲載された西岡力氏の発言の冒頭部を引用しておく。
歴史教科書が現在大声を出している人たちの理想とするものに変わっても、「教師の精神」が変化しなければ、相変わらず、左翼教師たちは、「教科書に載っていないアジテーション」を繰り返すであろう。実は、教科書に書いていることではなく、この「教師のアジテーション」「物語めかして道徳的追及を繰り返す教師の情念」こそが一番力を振るってきたのだということを、教科書改革運動家たちはちゃんと把握しているだろうか。そうでないなら、勉強馬鹿的な態度で、「システム(教科書の記述内容)」を変えれば「おのずと正常な体制ができあがる」という「社会主義者たちと同様の唯物論的理屈」に落ち着くことになる。まさに、左右はそのような「社会理論(唯物論)」をめぐって政治闘争をしている最中である。その余波をかって隣の中国や韓国・北朝鮮の政治勢力を巻き込みながら……。
教師として子どもの前に立っている「生きた人間」が子どもの前で「どんな精神を持っているのか」ということの方がずっと重大な問題なのである。左翼的情念に燃えている教師たちの情念が変容を遂げない限り、彼らは「新しい教科書」という目の前におかれたハードルを大股でぽんぽん飛び越えていきながら、「情念に満ちた目的地」へ子どもをいざなうだろう。「教科書などというハードル」なんぞは簡単に飛び越せるのである。授業自体を彼らがコントロールし続ける限り。
教科書ではなく、教師を変えなければならない。
これがもっとも効果的な解決策である。それにも大前提がある。「この1世紀来の教育システムに〈機械的に適応する〉こともって教育だと思い込んできた統治担当者や知識人を含め一般の日本人の深まらない教育概念」そして「教員養成と採用システム」の「大変革」をこそ行うべきなのであって、「今の子どもは勉強しない、どうのこうの、うんぬん」の話ではない。
エロ教師の横行を呼び寄せたのも、「一面的な学力のみ」で「人を採用する」という「楽な選別システム」(会社に就職するのにまでペーパーテストを課すという欧米の就職慣行にはない「思考態度」もまた「戦後日本的」である)、「採用者側の人間識別力の力量」がたいしてものを言う必要がない「〈戦後日本的〉な安易な工業的人選システム」がその元凶なのだということを今後は本気で考えようではないか。
君らには見えないか。大きな体をして、小さいことに心配し、あげくの果てに煩悶しているものが、世の中にはずいぶん多いではないか。だめだよ。彼らには、とても天下の大事はできない。
つまり物事をあまり大きく見るからいけないのだ。
物事を自分の思慮のうちに、たたみこむことができないから、あのとおり心配した果てが煩悶となって、寿命も何も縮めてしまうのだ。全体自分が物事をのみこまなければならないのに、かえって物事の方からのまれてしまうからしかたがない。これもやはり余裕がないからのことさ。(勝海舟 氷川清話)
拉致では横田夫妻はアメリカの「共和党」に助力を求め、今この時期に慰安婦問題を利用して日本たたきを画策する勢力は民主党に助力を求めて互いに綱引きを行っている、ってだけのことでしょう。日本、韓国の双方の勢力にとって、
アメリカは〈利用価値〉がある
と思っているからこそ、横田夫妻は渡米し「共和党」と面会し、韓国系のロビーイストは民主党員と面会したわけですよ。裏で攪乱戦略を指揮しているのは例によって北朝鮮シンパ組ですよ。これには韓国人も日本人も中国人も加わってますよ。朴正煕を韓国人を使って暗殺させたようにこずるい連中ですよ。今回は日系アメリカ人を使って日本を攻撃させるところがまさに仕掛けですね。こういうことを行っている勢力を「ある民族・国民」と思うと間違いますよ。今になってトルコの話が出てきたのも、まさに攪乱戦術ですね。「これら厄介者たち」の本質は、正確には「民族共同体を越えた思想集団」なんですから(したがって「民族感情は利用すべきもの」にすぎません、彼らにとっては)、何かっちあ「アメリカの陰謀」とか「アメリカの傲慢」とか言って溜飲を下げたがる人はそろそろ目を覚ましてください。「現実世界」はもはや「そんな時代」じゃないんですよ。「今回のような話」は、もうすでにずっと前から「ここ日本においても」おなじことが起きてるじゃないですか。この問題の本質は「延長戦」です。日本では横田夫妻は自民党に頼り、在日勢力は(韓国系北朝鮮系問わず)社民党、共産党あるいは日本の民主党の一部とそのシンパの新聞およびテレビ報道系マスコミ勢力に対してロビー活動を行う。現在「場所を変えて戦っている」だけですよ。「この問題」について、最初に火の手が上がったのはここ「日本」なのであり、それが半島に飛び火し、政府は「手打ち式」になるはずだった談話を出したが、相手はその約束を守らず、いまや太平洋を渡って北米で「精神戦」を行ってるだけの話。
アメリカは「日本VS韓国+北朝鮮」の精神戦の舞台になっているだけであって、けっして「戦いの当事者」なんぞじゃないんですよ。お互い敵同士(日本VS韓国+北朝鮮)で双方が「他人」(米国)を利用し合っておきながら、「裏切られた」なんぞ言うな、と言いたいですよ。
日本は横田夫妻のアメリカ政府(共和党)への働きかけやドキュメンタリー映画製作などの活動を通して「北朝鮮非難決議」の採択を成功させた。日本側がアメリカ(共和党)にねじ込んだ結果です。世界は一丸になって北朝鮮に対する拉致非難を行ったばかりのところでした。そんな目にあっても、北朝鮮は「かえるのつらにションベン」状態でしたがね。それに対抗する「日本非難決議」を今が非常によいチャンスだと思って民主党に動いてもらうことで、これにぶつけてバランス効果としようと、相殺効果をねらっている人々がいるんですよ。民主党は対北朝鮮融和推進派で、彼らの主張していることはちょうど日本の左翼勢力が盛んに吹聴していることと実はパラレルなんですから友とするにいいパートナーでしょうよ。帝国主義理論(それはもともと左翼の論理ですが)で世界の動きを解釈し、アメリカの活動を解釈し続ける限り、どれほど「日本愛」を叫ぼうが、彼らマルクス由来の世界観の信奉者たちの思うつぼですよ。「世界の統治実態をどうみるか」ということに関しては右翼の世界観も左翼の世界観と同じですから。つまりマルクス由来の世界観ですよ。現在の日本の右翼人には自覚がないようですが。
まあ
「日本の右は左と同じ〈帝国主義論(マルクス史観)の信奉者たち〉あるいはそれに由来する感情を是として反省しない人々だ」
ってのは、私のかねてよりの持論ですがね(過去のエントリー参照のこと)。
http://matcha.blog.shinobi.jp/Entry/20/
自称「反米保守」の、かつ「社民主義者」という「奇妙な存在(実質社会主義者)」も皆、〈純正左翼〉と〈同じ思考枠〉あるいは〈感情線〉に沿って思考する〈思考のるつぼの仲間〉なんですよ。総称「保守陣営」への、元左翼運動(あるいは感情)体験者からの流入組の数を、彼らが「親米保守」といって罵倒している人々の「若い頃の活動歴」と比べてみてください。「元左翼」あるいは「元左翼シンパ」だった人々を抱え込んでいるのは圧倒的に「現在」の自称「反米保守」派の方なんですよ。学生時代「反米愛国」の旗を振って騒乱を起こし、結果彼らの親をハラハラさせていた連中が、「歳食って」、外見(そとみ)には、左から右に移って「反米愛国」と叫んでるように見える。だが、ほんとうは、
「彼らは〈社会主義〉を、あるいは〈そこから生まれる反逆的な世界感情〉に耽溺したがる傾向(自己愛)を捨てていない」
これこそが、「彼ら反米保守派の真実の姿」ですよ。
彼らの「自己韜晦ぐせ」は直りそうにもない、純正左翼人の「自己韜晦ぐせ」が直りそうにないように。
右=左。
「彼ら」が言うところの「教育再生」とはそもそもなんだろう。私には結局のところ、「明治以来の〈教育観〉維持会議」「明治以来の〈教育観〉維持機構」にしか思えない。
一日3食食べ、食卓に四つ足の肉を並べる習慣は、昔の日本にはなかった習慣だ(もちろん肉食については仏教伝来以前の日本はまた異なった世界だったようだが)。比喩としていえば、西欧システムの教育体制が導入されたということは、西洋の思想の影響を受けて食習慣が変わり、「一日3食食べるのがよいと思われるようになったシステム」に変化したということだ(一日3食方式は江戸期からだということは分かった上での比喩である)。日本人は、西洋産の自然科学という新しい食い物も食うようになった。そのことによって日本人は唯物論も同時に受け入れた。その後1世紀以上の時が過ぎた。そして現代、「日本の子どもたちがおかしい」という話になった。だが彼らは「学力とは何か」という具体的説明もせずに、「明治以来の一日3食システム」という「外枠」は「踏襲」したまま、「食っている量」が減ったから「食わせる量を増やせ」と言っている。「そんな話」を「再生」などとなぜぬけぬけと言えるのか。再生ではなく、ただの「分量調整」ではないのか。言ってみれば逆ダイエット提言である。彼らの言うことが本当に実施されたとしても「教育体制の本質」は以前と少しも変わらない。そして彼らは「教育思想」「教育観」という「大枠」には何ひとつ手を付けようとしない。「教育観は明治以来の西洋式のままでいい」と、そう思っているのだろう。しかし「そういう彼らの思想」こそがまず変わるべきものなのではないのか。
そして罰則規定である。あすこで文部科学省が「やってもよい」とお墨付きをあたえた罰則なら、30年40年前に「普通に行われていたこと」ではないか。彼らは「すでにずっと行われてきた教師の振る舞い」を「ただ追認しただけ」で「再生」という言葉を吐くつもりだろうか。
韓国映画に『マイ・ボス マイ・ヒーロー』という映画があるのをご存じだろうか。韓国の高校教師がとにかく高校生をなぐりまくっていた。「ああ、これってかつての日本の高校と同じだよな」と思って気分が悪くなった。韓国の教育システムは、戦前の日本の統治システム導入とともに、教育システムもまた「そのまま日本から持ち込まれたもの」である。『冬のソナタ』でヨンさまが学生服を着ている姿をみて、「なんでコイツ日本の学生服を着てるんじゃー」とブッ飛んだ方もいるはずである。
韓国の左翼運動に「思想的土台」を与えたのも日本である。彼らは、日本統治時代に身につけた学習体験によって、日本語で「日本の左翼本」----「世界をどのように感じ眺めるべきか」ということが煽動的に書かれた書物----を読むことができるようになっていた。「恨の文化」なんぞ幻影である。彼らに「今の感情をもたらしたもの」は、彼らにとっては「生まれたての近代精神」そのものである。「われわれは国民である」という近代人としての自覚感覚である。その感覚の上に、左側から注入された帝国主義史観で近代の極東史を眺めると出てくる「情念」に、「恨」などというニセのレッテルをかぶせて自己韜晦しているのである。現在彼らが「恨」といって日本を道徳的に責めようとしている振る舞いは「左翼思想」の裏張りをされて巧妙に「日本経由」で半島にもたらされたものである。江戸時代、朝鮮は徳川幕府の将軍の代替りごとに、挨拶にやってきていた。彼らはその当時別段「歴史的恨み」を心の底に抱いて将軍に挨拶していたわけではない。
「歴史論争」などという、「戦後的近代勉強馬鹿たち」が----この点では右も左もない。近代的学校体制は罪深いものである----喜々として口角泡を飛ばして興じている振る舞いもまた、近代以前には極東にはなかった振る舞いである。近代といっても、戦前も「近代」である。しかし戦前、世界には「こんなふうに学問めかして歴史論争にうち興じる多数の勉強馬鹿的庶民なんぞいなかった」のである。「これらの人びと」は「戦後」に誕生した「新しい人種」である。「われわれ自身の振る舞い方」そのものが「戦後的な新しい現象」なのだということを、ひとまず理解した上で、右も左も相手の顔に汚いつばきも飛ばしてみるといいのである。
韓国の教育事情が日本に似ているのは日本の教育システムをそのまま独立後も踏襲したからである。日本統治が彼らの教育体制の土台になったのである。韓国の場合はさらに日本式をハイパー化しており、中国・韓国と高校生の国際学力検査トップ3のうちの二つに食い込んでいるが、そんな利口なハズの彼らの「世界政治における国民の精神生活の発展途上性」ぶりを見ると「そういうタイプの学力」なんぞ何の役にもたたないということがよくわかるハズではないか。
韓国の大統領ノ・ムヒョンが西洋の首脳たちの前で(アメリカ大統領やオーストラリア首相らの前で)歴史問題を持ち出し、ブッシュさんから「(そう熱くならずに)日本とじっくり話し合ってみたらどうか」諭されたら「でも自分が高校時代に習った教科書には(日本人が主張するようなことは)書いていないんです」と答えて白人首脳たちの苦笑を誘ったという「象徴的な話」が伝わっている。(世界高校生学力比較テストで日本を抜いて上位3位以内に入った韓国高校生と中国高校生。彼らの現実(真の精神生活)は哀れである。もちろん日本人の「勉強馬鹿ぶり」も笑えない事実である。日本を含め極東の数国は、奇妙な教育体制によって「勉強馬鹿」を量産している国々である。彼らは「国が与える教科書」を皆信じてエリートになった人びとである。そういう人びとを作るために生み出されたのが西洋の近代式教育体制のもともとの思想の土台だった。帝国主義時代の西欧近代諸国家では、そのような体制維持のために働く利口な官僚向きな国民が必要だったからである。だがそのような近代システムの生みの親の彼らはそういう思考方法からはすでに脱している。しかし遅れて近代化を遂げたアジアの諸国家、最近では特に中国や北朝鮮の例が顕著だが、彼らの国の官僚たちは「その利口さ」を国民の精神生活の真の発展のためには使わない。いや「魂の発展」がまるで追いついていないので、そもそも「正しく使う能力(精神力)」がないのだ。かえってその利口さを国民の抑圧に使うばかりである。)
ひるがえってこの日本において、「本当の教育現場」を知らずに現在大声で教育提言をしている彼らは、「ただ自分が子どもの頃どんなふうに教育されたかという思い出を語っているだけ」なのだ。自分が子どもの頃体験したやり方を「今の子どももすればいい」とただ安易な提言をしているだけなのである。
これが「明治以来の教育システム」によって教育され続け、ついに学者と呼ばれるようになった人びとの出した結論なのである。私には、「あまりにも無残な姿」だった。学者なら「本質論」から入るべきだったのに、何一つ彼らの口から本質論が出てこない。
「今の子どもの姿」ではなく、「教育提言をする彼ら」の姿にこそ、「明治以来、現在まで続いてきた西洋近代初期の教育思想導入から独特の日本式発展をとげた近代教育の仕方」が「まったく失敗だった」という「結論」を見るべきなのである(これは先に紹介した兵頭二十八氏も言っていたことだった)。彼らは心がゆがんでいるのは「今の子どもだけ」で「自分らの心根はよい。自分は受験競争を突破してきた頭のいい人物だ」と思っているのだろうか、「私には思考態度において反省する点はない。だから自分たちには今の教育のゆがみを〈正す能力〉がある」と。
最近、中学受験熱が東京で高まっているというニュースがながれた。彼らマスコミ人たちは、3、40年前にはなかった学習塾の隆盛をなんとも思っていないようだし、むしろ、密かな希望としては、普通の小学校という公教育の場所では「受験対策」なんぞしてくれないから、自分たちの子どもも「そのような進学塾」でどしどし鍛えて「お受験」に受かってもらいたいと思っているのではないかと私は密かに疑っている。「塾で〈何を覚えさせられているか〉は知らないが、そもそも〈そんなことには興味はない〉。ただ〈試験に受かることのできる力〉を塾で身につけてくれたらよい」そう思っているのだろう。
調べてみるとよい。こういう報道をした東京のキー局でキャスターをしている既婚者たちの子どもは皆、学習塾通いをした「お受験」の親体験者かその予定者かその最中者のはずである。その他裏方をやっている人びと、朝日新聞や毎日新聞などで部長なんぞをやっているような人びとも同じである。ハチマキをして特攻隊員のように受験に送り出される小学6年生を、彼らは何度もニュース映像で流したが、「それはとても異様な光景に感じる」という感受性がもはやなくなっているのである。30年前の日本人はそうではなかった。「それは馬鹿げている」とちゃんと感じ、そのことを「問題化」して議論の俎上に上らせていた時代が確かにあったのである。今後はますます小学生の受験者が増えるということは、「受験技術伝授の低年齢化が進む」ということである。日本人はますます多くの人びとが馬鹿げた領域に突っ込んでいきたいようである。日本の子どもたちは「正しい子ども時代」「正しい子ども体験」を親たちの近視眼的対処によってますます奪われていくのだろう。
まるで石油危機のとき、トイレットペーパーがなくなるという流言によって、大挙して買い占めに走った主婦たちの姿とどこが違っているのだろう。どこの学校を出たかという「水戸黄門の印籠」が欲しくて駆けずり回る競争を「教育」という名で呼ぶのはよすべきだ。まさに西洋式の教育システム導入以後に、日本の教育が「加速度を増していびつになっていった原因」もここにあるのだから。近代式教育の生みの親たる西洋人は「水戸黄門の印籠」なんぞ欲しがらない。国家が率先して「水戸黄門の印籠システム維持の擁護者」となって現在にいたっているのが日本である。
「教育の危機」とは「そのことに気づくことができなくなっている」という「その感覚の麻痺状態」から生まれているのだ。
再生会議や再生機構のメンバーには、この3、40年で異様に肥大化した、この日本の受験産業の隆盛をどう思っているのか、聞いてみたいものである。塾と言えば、昔は書道塾、そろばん塾などが主流だった。それは小学生中学生の子どもたちの生活要求とも合っていた。彼らは現実社会と直結する習い事をしていたからである。「自分たちは大事なことを習っている」という実感も持てただろう。それは健全な社会だった。「そういう実感」を子どもたちから次々と奪っていった3、40年間が、有識者たちが再生(本当は「維持」)させたいと思っている教育システムである。だとしたら未来は暗いのではないか。