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操練会議

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アメリカ型?

日本の人たちは自分たちがどんなすごい国に住んでいるのか分かっていない。(元メガデス マーティー・フリードマン)


自称保守派の中には、日本経済のアメリカ化というような言い方で「亡国の警鐘を鳴らす言論人」って多いですが----「この部分」だけ抜き出すと韓国の保守派にも反米派はたくさんいますので、そのエトスは実は互いに非常に似ていると思います。ちょうど似たような感性を持った野球ファン同士が巨人対阪神に別れて、「歴史認識問題シリーズ戦」では互いに相手チームに毒づき合っているという構図ですね。どちらもにも品性はあまり感じられません。

まあでも、「敵側」にとっては、「慰安婦イシュー」は「戦略」(「日本にインネンつけ続ける」という大目的)中の「戦術」のひとつでしょう。そしてこの問題でホットなのは実は極東だけ。「約192カ国-数カ国=世界の住人たち」にとっては、ほんと他人事ですよ。そして現実の世界の一般の住人たちは「〈歴史を学ぼう〉などという、お勉強的世界」なんぞではなくて、そういった「観念の世界」ではなく、「自分の実際の生活圏」に存している興味関心と直結している「現在の日本が自分に提供してくれている価値」にしか関心ありませんから。最近の台湾アイドルのレイニー・ヤンの事件(彼女は4年前の出来事を「今」叩かれてるわけです)は「現実の生活感覚(正直さ)」が「勉強馬鹿たちの観念世界(建前)」から攻撃を受けていることを示すよい見本です。

(誤解なきよう付け加えておきますが、私は教科書の記述を順当なものにする運動に反対しているわけではありません。それどころか、扶桑社版の教科書運動がおこる以前、まだパソコン通信しかなかった時代に、中学社会科の教科書の記述がずいぶん変になっているという事実は、その当時の「会議室」[ニフティ・サーブ内]でもたびたび指摘してまいりました。)

私は宮崎県民ですが、「遠い地方の住民」のことは分かりません。たとえば群馬県はどのへんにあり、群馬県民とはどんな人びとであり、群馬県はどんな歴史を持っているんでしょう。分かりません。なぜ分からないんでしょうか。それは「さしあたって、自分の生活現実に鑑みて〈そんなことにはまるで興味が湧かない〉から」です。関心があるなら〈お勉強する〉でしょう。日本国内においてさえ「一般の人びとの〈お互いの生活圏〉への関心の持ち方」というのはこんなもんです。群馬県民の方々も他の地方に対しては宮崎県民の一般の人と同じように暮らしているわけです。

しょせん、「他人」なんですよ、外国というのは。「それが分かっていない人びと」の吐き散らかす「親米」とか「反米」という「政治用語」は、どっちにしろ〈対人恐怖症〉にかかっている人が用いる言葉としか思えません。彼らは、「日々、人前で赤面し続けている」のです。

つまり今の日本の若い人たち(自動車やエレクトロニクス、アニメなどを世界に供給している人びと)が行っている振る舞い、彼らが「現在、世界の一般住人たちに提供している価値」による「影響力」の方が本当はずっと「政治的宣伝力」も持っているってことです。特定国と日本の反日日本人にはそれが理解できませんから、実は「世界的には何の政治効果もない」にも関わらず、「シュースポスの神話」のごとき、岩石運びの徒労(「歴史問題への言及」)を何度も何度も繰り返すことになります。現実の世界は彼らの徒労を無視して先へ進むのです。そして20年後30年後50年後と世代が交代していけばいくほど、「このやり方」の効果は、ますます薄れていきます。

ところで「自称保守派」の内部に紛れ込んでいる国内の「隠れ左翼人」の問題です。私が思うに、どうやっても日本はアメリカ風にはなれませんよ。今でもまったく似ていない国です。国民の気質から何から、ほんとに似ていません。日本の知識人はヨーロッパ型が大好きです。経済観念にしても、唯物論の信奉者である点においても。ヨーロッパではいまやほとんどキリスト教徒はマイノリティー派なのに、あいかわらず日本の知識人は「やつらは一神教だから、うんぬん」と馬鹿なことを言い続けていますが。信仰の価値というものをいまだに保っているのは、南北のアメリカ大陸に住む住人たちの方であって、ヨーロッパ人たちではないということを区別して議論している保守派論客というものを私は知りません。

意外なことでしょうが、17世紀のヨーロッパの言語の発音を継承していまでも用いているのは、カナダ人やアメリカ人たちの方なのであって、本家のヨーロッパの方はフランスもイギリスも17世紀当時の発音から変容を遂げて新しい国語をしゃべっているということも特筆すべき点です。言語的により古くさい発音を用いてしゃべっているのが「新大陸」に住む住人たちだというのは、大変におもしろい事実であります。ミシガン大学社会調査研究所が21世紀の初頭に出した調査結果によりますと、ヨーロッパ人は、ロシア、東欧圏を除いて、どの国でも国民の7~8割が宗教は----彼らの場合は具体的にはキリスト教になりますが----生活に必要なものではないと回答する時代に突入しております。一方南北アメリカの国の人びとは6~7割の人が宗教----言いかえると「彼岸の世界を敬いたい、という感覚を持つこと」----は生活に必要だと答えております。(私は昔、元記事を地元の夕刊紙で見たのですが、現在ネット上ではほとんどその「価値観調査」の言及記事が見つかりません。ということで、内容報告については、はなはだ簡略化されていますが、徳行寺だよりをご参照下さい。)

日本はどちら型に入るでしょうか。もちろん唯物論者の巣窟となったヨーロッパ型であります。同じ質問に対して日本人回答者たちは、8割以上の者が「必要ない」と回答しています。調査対象73カ国中「必要ない派」2位という結果でした。建前共産主義の中国人回答者の結果はさらに日本人の上をいく唯物論者ぶりで、73カ国中「必要ない派」1位。

つまりもし「世界唯物論者コンテスト」というものが行われたとすれば、1位 中国人、2位 日本人、という結果になり、「その唯物論者ぶりにおいて、日本人はヨーロッパ人をすでにしのいでいる」と言えるのです。この調査結果の先に示される解釈というものは「精神生活の前進なのでしょうか、それとも後退なのでしょうか」。「社会科学」は「事実(調査結果)」を提示する技術を持っていますが、実のところ「その意味を解釈する能力」はありません。この調査結果を見て「日本人の精神的進歩ぶりに大満足する人びと」も日本にはたくさんいるでしょう。

感情生活の面でも日本はアメリカとはまったく似ておりません。ヨーロッパ人とは意気投合できるでしょう。「唯物論に基づいた世界観を愛するという進歩的な感情生活」を肯定するという点において……。

アメリカ型市場主義経済といっても、そうやって毒づく人の「理解の仕方」が順当なものなのか、その人の文章を読んでもそもそも「その人がどんな理解の仕方をしているのか」よく分からないものが多いですしねえ。それに「アメリカのような経済をやっていると格差のために国が滅ぶ」というのなら、その元祖のアメリカは「日本よりももっと先に滅ぶハズ」ですが、この理屈はどうなんでしょうか。それとも元祖は滅びないが日本は滅びるのでしょうか。それはなぜでしょうか、その辺の理路をもっと納得できるように書いていただきたいのです。彼らは代案として「新しいこと」を言っているのでしょうか。まったく何も新しいことは言っておりません。アインシュタインのように経済学の「公理を疑う」ことにって経済学の個々の用語の概念からすべてを180度回転させて、新視点による「まったく聞いたことのない経済理論」などを語っているわけでもありません。彼らは昔学校で勉強した知識のみにたよるばかりです。なぜ、「公理を疑う」という骨の折れる作業から入らないのでしょうか。出来合いの経済学の教科書を振り回すだけで、本当に現実を抜本的に変えることができるでしょうか。

「アメリカ型を行うと国が滅ぶ」なら、社民主義で反米主義者の保守派の方は『正論』とか『諸君』とかで気炎を上げているだけで、その元祖アメリカがまさに「アメリカ型経済」で滅亡するのをただ待っていればいいわけです。彼らの言うところの「アメリカ型市場〈原理主義〉経済」というものを「アメリカ」が「本当にやっている」とすれば……。

それは彼らによれば「亡国の経済体制」なのですから、21世紀初頭の今日、マルクスのようにここ日本においてふたたび「予言」をしている彼らは 、「予言」をして「嫌いなアメリカが滅ぶ」のをただ待っていればいいわけです。彼らによればアメリカは理論的に滅ぶハズです。

ということはこれは忍耐ゲームであって、「待っていさえすればアメリカはその資本主義に内包する矛盾によって自己崩壊する」という理屈になり、なーんだこれは、大昔にカール・マルクスが資本論で言っていたことと同じ「予言文句」を表現を変えて言っているだけではないかという結論にいたります。

いつも感じることですが、自称保守派、本質経済左翼の方々の理屈は、純正左翼の論法に似ているところがあります。彼らの振る舞いはイメージ化すると、こんな感じです。

公園に一匹の犬がいるんですが、そこに先験的(アプリオリ)に猫嫌いの人物がやってきて、わめき始めます「あの猫はけしかん、あの猫はけしからん」。

あんまりわめくので指さす方向を見てみるんですが、「猫」はどこにもおりません。確かに公園には「生き物」は存在しているんですが、その猫嫌いの人は「犬」を指さして「猫は好かん、猫は好かん」と繰り返し、「猫にはこんなところがある。猫を放置しているとひどいめにあうぞ」とわめき続けます。でも「公園には猫はいない」んです。

それはとどのつまりアジテーションにすぎません。学問的な言説ではないんですよ。

経済観の変容の必要は感じます。しかし「世界経済」というものは、「国内社民主義」などというもので対応がつくほど簡単なものではないと思いますよ。
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