外面ばかりを見て、同じようにそこ(外面)から大問題とみなしている事象の原因を探す。どこの国も振る舞いは似たようなもんです。教育基本法改正の本質は日教組思想とそれに呼応する教師たちの学内学外での常軌を逸した「政治的振る舞い」を掣肘するための法律であって----ですから、それはもともと教育の政治利用という異常化した教育現場状況に対して注入された濃縮された劇薬であり、本来はそのような「愛着」に関わるような「精神的なもの」は、人々が普段そうとは意識化せずに呼吸している空気のように、穏やかに穏当なレベルにまで蒸気化されて、人々の内面にのみ生きている現実的感覚として保持されるべき体のものです。ですから、「新条文」は「教師という大人たち」の腕めがけてニードルで注入される薬であって、実はまったく子どもたちへ向けてのものではありません。もともと教師たちが、常識的感覚を持ち、子どもたちの前で彼らの模範たりうるような良き人間として振る舞えてきたなら「あえて条文化する必要のない言葉」だったのですから----、ですから、条文化によって「その愛着精神が子供に内面化される」などというような都合のいいことにはならないでしょう。そもそも教師がはっきりと子どもたちの前で明言しなくとも、その教師の普段の言動から「彼の社会観国家観が穏当なものであるかどうか」を子どもたちは感じ取るものだからです。実際には、「言葉そのもの」からではなく、子どもたちに尊敬されている教師の人格が回り道をして、子どもたちを道徳的にするのですから。むしろ知的で利口で----ということは学習上の模倣能力の高い----教師の覚えめでたい生徒たちの中からこそ、教師の「政治的な言葉そのもの」と自己同一化する、将来の左翼人候補が生み出されてきたのでした。戦後、左翼思想家に変貌したたくさんの学校教師たちから「そのような利口な子ども」がたくさん生み出されました。そしてそのような「偏差値の高い利口な子ども」が成人したのちに、今度はそのような教師たちの「精神の振る舞い」を「模倣」し、社会という共同体を害してきたという「事実」を再度みなさんも確認されるべきです。「一面的に学力のある人間」が児童生徒の教師になり、あるいは大学の教師になり、社会を害してきたのだという事実をです。
法律の「字面」を変えるだけで、子供の精神が変わるなどと本気で思っているなら、あまりにも安易な考え方です。その時々の人々の「社会思想」というのは、それが政治化して教育現場にまで進入し、人々をひっぱろうとしはじめると、はなはだ迷惑なもんです。「国あるいは行政機構に自分の子供の教育の基本理念を任せる(まる投げする)ことは正しいことか」という発想が出てくることがないのが、いまだに人々が意識的に近づこうとすることのない「本当の教育問題」です。国民によって国家に「まる投げ」されているものとは、法律に基づいた学校制度や予定調和的な解答能力を試す現在のような試験制度を含めた、すでに慣習化してしまっている人々の教育に対する思考態度です。「出来上がったルール」のなかで「いかにうまく立ち回るか」というのを教えるのが、予備校、学習塾を始めとする民間の教育施設です(公文や進研ゼミのテレビCMを思い出してください)。現在のような制度と体制と人々の「勉強とはそのようなものだという教育観」が厳然として下支えをしてくれているおかげで、そのような「産業」は成立することができるのですから。近代化以後、ある時間を経て、結果的には西洋の近代教育思想から「システムとしてのみ抽出され」----この極東地域の人びとによれば、彼らはそれを、なんと「教育」と呼んでいるのですが、----日本人の教育感覚は、いまや西洋の「それ」とは----また近代化前の江戸時代の日本の親たちの、自分の子どもへの「教育配慮感覚」とも----まったく別物に変貌を遂げました。現代日本人は(また現代中国人も現代韓国人も)近代式教育を発明した本来の西洋の人びとの振る舞い方とはまるで異なった、実は皆自分が何をやっているのか、皆目見当もつかないような、奇妙な「解答技術」の「洗練化」へと、方向をシフトして現在に至っているのです。欧米諸国には日本や韓国や中国のような、受験産業は存在しないということは皆さんもご存じでしょう。したがって、たえずある種の思想系の人びとから経済的あるいはそれに基づく道徳的悪態をつかれているあのアメリカも、その種の人びとが恐れていた金融問題のようには、つまり「新しい市場」を求めての「外資の日本への受験産業の参入」なんぞというような振る舞いには、ついぞ出ることもないでしょう。さらに言えば西洋・東洋と言っても、アジア地域のなかでも、「この奇妙な教育感覚」は、かつて儒教・漢字文化を共有していた極東人たちが、その振る舞いの奇矯さにおいて、他のアジア諸国と比べても突出しているということも、皆さん、よくよくかみしめてみるべき事実です。
「学力とは何か」という問いかけが、いっこうに出てこないまま、奇妙な学力論争が引き続き行われています。彼らが憂えている「学力低下」とは結局「受験能力の低下」ということでしょう。世間が学力低下を憂えているのを耳にしてひとしきり他人の前で学力問題を憂えてみせる肝心の親の方に「自分の子どもには学習によって何ができるようになり、何を覚えてもらいたいですか」「そのような知識や能力は、どんな年齢の時期に、どのような方法で身につけさせたいですか」とたずねてみましょう。彼らには何も答えられません。せいぜい「そうですねえ、社会生活で必要な漢字が読めて、生活で困らない計算能力を身につけてもらって、それから、ええっとですね.....」、それ以上は答えることができないでしょう。現代の親は「そんなこと」を(何を、いつ、どのように教えるのか」ということに関して)、体系的に系統だてて真剣に考えたことは、実は一度もないからです。「どれくらいたくさん覚えられたか」を競うことが「テスト」なら、「ポケモンの数百匹のキャラ」を覚えさせ、「説明する能力」があるかでも、子どもの「学習能力の範囲や限度」は「確認できる」でしょう。なぜそうしないのです。
結局、保護者たちは(もちろん教師も)、示される数値には関心を見せても、行われている教育の中身自体には関心がありません。教師の方と言えば、「何をどのように教えればよいか」について、国から示された通りに、かつて自分たちが児童生徒だった頃の、自分たちの先生の振る舞いを思い出して、「その振る舞い方」を模倣して教育行為だとみなしているのです。確かに見た目には「教師のように」見えます。教師は「今この時期(年齢時)に、なぜこの知識(解法)を子どもが身につける必要があるか」について「その根拠を本気で感じる」ことはありません。「そんなこと」は、彼らも大学で習ったことがないからです。近代教育現場には、本当の「子どもの成長の衛生学と心理学」が存在しないからです。「子どもについての専門家」であるべき人びとが実は、「子どもの成長の法則」について何も知らずに教育学部を出、他の大学で教職過程の単位をとって卒業していきます。大学の先生方も、だれも教えてくれません。(もちろん知らないからです。)
「ある具体的目的」のために、「その教育行為」が、「本当に必要な知識・能力」を子どもたちにもたらすなら、テストをして番数を出すことばかりに関心を見せるのではなく、「なぜお前はそんなに馬鹿なんだ」と子どもをなじる前に、「国民から委託された教育行為を貫徹する」ことこそが第一に教師が心の土台にすえておくべき心構えでしょう。自動車教習所の指導教官たちは、お金を払ってやってくる受講者に、彼ら教官たちが必要だと考えている技能と知識の水準をちゃんと受講者たちにクリアさせて自動車学校を卒業させているではないですか。しかし、義務教育がやってきたことはそれとはまったく別のことです。 行政側は、国民に税金を払わせて、彼らの子どもを法律の名もとに強制的に一箇所に集め、まるでひよこの選別をするように、選別システムにかけてきました。そして、選別するときに利用するものが、自分自身の「具体的な身体活動」を通して「生を実感して生きているはず」の、「自分がこれからそこに加わることになるはずの大人たちの生きる現実の世界」を「敬意を持って理解したい」と思っている子どもたちの魂の要求とはまるで関連性を感じさせてくれない「無意味な表象」に満ちた紙の上で踊っているさまざまな問題群です。
しかし「現在のような教育システム」では、現代の教師たちは、子どもたちのそのような潜在的な要求に答えることのできるようなカリキュラムも教授法も持ち合わせてはいないのです。そして旧来の方法を踏襲して、ただ規定時間授業をして規定通りのペーパーテストを形式的に繰り返します。そして成績が悪いと教師は嘆きます。けれどもそのような教師たちが、「できないのはお前が勉強しないからだ」、といって、それ以上学力不足の子どもに介入しないのは、本当は教師の側の責任逃れであり、怠慢ではないでしょうか。しかし、教師がそのように振る舞えないのは、教師の側に「動機」が欠落しているからです。医者は「治す」ために「テスト(検査)」をしますが、それはそのテスト(データ)結果をもとに患者に「どういう対処をすればよいか」を見つける手がかりにするためです。しかし「現在の〈義務教育制度〉下における検査(テスト)の扱い」は「それとはまったく異なった目的」のために使用されます(小学校教育は基本的に定期テスト式の順位を出しませんからまだ医者的なアプローチを教師たちはおこなっています。それが中学へ上がると変化します)。中学になって行われるようになる現在の定期テスト方式は、「未来の高校進学振り分けの資料とする目的で子どもを分けるためにおこなっている」のですから、「差が出ないテスト」ではいけないからです。差が出ると教師はむしろ安心します。けれどもその教師はなぜいまこういう授業を行っているのか、その根拠を示すことができません。教えるべきことは国家から「自動的」に示され、教員採用試験に通って教師になった人びとは、それを「履行すればいい」のですから。今、教師が行っていることは、彼らにとって、すべて「前々から受け継がれた自動行為の反復」にすぎません。教育行政の側も「本質的なこと」は何ひとつ示せません。ものすごい受験競争を経て、官僚になり、教育行政を立案している人びとも「〈教える根拠〉という習ったことのないことは分からない」のです。彼らが官僚採用試験に合格したのは、「習ったことを正確に反復できることを、採用試験時に試験官に対してみごとに披瀝できたから」です。教師の側が「自らの精神活動それ自体の内部」から「その教育行為の根拠」をはっきりと把握できていたなら、「今この子にこのような知識と能力を身につけさせることに失敗したら、私はこの子の未来をだいなしにすることになるのだ」と感じ、身震いさえするはずです。しかし、現在の日本の教育行政も「根拠を示すこと」ができません。「そのような精神がある」ということを、誰も意識したことがないからです。したがって教育行政担当者にも教師の側にも、自分たちがこれから子どもに行おうとしていることを前にして、そのことによってこれから子どもが担わされることになる運命に思いをはせ、身震いし、「責任感」が内面からおのずと沸きだすというようなこともないのです。
ですから、国家国民総ぐるみで、実はそのような「ソフィスト的な処世術」----外面では昨今の子どもたちの不徳を嘆きながら、実際には内面構造的に子どもたちに強いている思考態度とは、そのように「きわめて子どもの利己主義に訴えかける傾向を有する精神」です----を子どもたちが身につけられるかどうかの「競争」を行っているに過ぎないのです。教育思想の現状維持、あるいは教育システムと人々の教育観の外枠部分(基本構造)はまったく変化しないまま、明治の学制導入以来ずっと続いてきた、そのような近代的教育体制への懐古趣味から、そのような現状維持的な教育感覚を持った大人たちの、自覚できない精神構造が、結局子どもを不徳の荒野へと追い込んでいるのではないでしょうか。子ども時代からずっと「受験者としての利口者で通ってきた人々」こそが、「利口者ゆえに紙の上の試験で比較的楽をして社会人化した体験を持っているゆえ」に、自分たちが経てきてクリアしてきた教育システムの温存派になっているという状況もあるでしょう。自分が他の仲間に比して楽々とクリアしてきた成功体験が、かえって教育状況全体の見通し感覚をゆがませているということもあるでしょう。そのような人々の口から出てくる言葉によって支持されている今までの教育体制は、子どもたちを決して「精神化する」ことはないでしょう。親や教師、あるいは世間一般の大人の口から出る道徳的な言葉が、子どもたちの身体に入って内面化され、「道徳的に血肉化する」ことができなくなった時代に突入しているということが彼らには感受できないのですから。本質は説教として子どもたちの面前で繰り出される言葉にあるのではなく----法律上の条文の明文化ではさらになく----現代の、直接間接を問わず、子どもの保護者として生きているはずの大人たちの、教育本能の衰弱化にあるのですから。
近代初期に西欧世界で導入され、日本も国家の近代化にあたってそれをまね、義務教育という国家主導の公教育制度の存在そのものを、制度導入以後、その存立の仕方を自動車のギア・ポジションが上がっていくようにさらに高度に自動化するままにほっておき、一度も現代のように「そのような教育の仕方によって硬化症化していく精神のあり方そのもの」を疑ってみることのなかった精神、近代精神の出現とともに諸国民の間で「そうであるべきもの」として共有されるようになっていき、現代にまで受け継がれることになった「国家によって与えられ認証され管理される教育こそ教育」という「私たちの自動化した思考態度」こそが問題なのではないかと、疑ってみる機会が今後あるかどうかが、ほかならぬ「近代発の教育構造によって腐敗化していく人間精神」の救出につながっていくだろうと思いますよ。
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TBプリーズ!!
ありがとうございます
はじめまして
無題
ありがとうございます
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