今月11月号の『諸君』における西尾幹二や佐伯啓思の発言により、私のかねてよりの「暗示」----彼らは現在にいたるまでずっと「その事実」を隠し続けて来たが、「日本の伝統保守を掲げる自称保守派の大部分」が漠然とよりかかっている経済思想が、実はただの旧来の社会主義思想にすぎないという事実----が、とうとうはっきりと人々の目に見えるものとなって「析出化」した。どうか「漠然とよりかかっている」という表現を重視していただきたい。彼らの経済感覚は、左翼人によって戦後大喧伝されてきた陰謀論に一喜一憂する左傾化した一般読書界の経済感情と大差がないのであるから----彼らは対談の末尾で「もっと左翼リベラルにがんばってもらいたい」などと檄を飛ばしている。
佐伯啓思も偽装保守にすぎないただの社会主義者である。そうであればこそ、彼らのいままでの激烈なアメリカ批判も納得できるのである。それは----つまり「おのれが捧持する経済思想」によって社会主義者的立場からアメリカの経済体制を批判するというのは----もともと「左翼人のオハコであった」のだから。彼らは、自分のよって立つ経済思想の旗幟を鮮明にすることなく、それ(アメリカたたき)を、おのれの感情生活に内在している社会主義思想の影を世間の人々に悟られないようにと隠しながらやってきたにすぎない卑怯者たちである。
だから彼らは、「本来の左翼人」よりももっと卑怯な人々である。本来の社会主義者はアメリカをたたくとき、自分の経済思想の立場を隠さない。いやそういう思想に依っているがゆえにアメリカをたたくことをはっきりさせてきたではないか。だが日本の自称保守派は、「保守」は「思想」ではなく、「生活」である、と言う。だが、それはごまかしにすぎない。彼らには「自前で明確に語ることのできる理念がひとつもない」「実は何ひとつ自前の思想を人々の前に用意できない」という現実を、そのような言い方でごまかしてきたにすぎない。にもかかわらず、彼らは「理念を提示できない思想家」として、いままで一定の人々から敬意の念を向けられてきた。彼らはこれからも何ひとつ、現代の混迷状況を改善へと導きうる「彼ら独自の理念」を披瀝することはできないだろう。彼らのやってきたことは民主主義批判にしろ自由平等批判にしろ、昔ヨーロッパの知識人たちがやってきたことの「日本への輸入」でしかないのだから。彼らは実際には「ヨーロッパ思想の輸入代理人」でしかない。そういう振る舞いをすることを明治の良識派はかつて、「西洋かぶれ」と批判してきたのではなかったのか。西洋かぶれが西洋かぶれを批判するとは、なんという喜劇だ。だが彼らには「自分たちが喜劇を演じている」という自覚がない。彼らは「自称伝統主義者」なのだから。
彼らの振る舞いは、ちょうどヨーロッパの社会主義者たちが、戦前戦後を通じて、激烈なアメリカ批判をしつづけてきたこととパラレルな関係になっているにすぎない。ヨーロッパにもいまなお卑怯な社会主義者がたくさんいるからである。
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