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操練会議

このblogは、HP「物部守屋の末裔 勝海舟の研究」の付設ページとして設けられました。
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アメリカ型?

日本の人たちは自分たちがどんなすごい国に住んでいるのか分かっていない。(元メガデス マーティー・フリードマン)


自称保守派の中には、日本経済のアメリカ化というような言い方で「亡国の警鐘を鳴らす言論人」って多いですが----「この部分」だけ抜き出すと韓国の保守派にも反米派はたくさんいますので、そのエトスは実は互いに非常に似ていると思います。ちょうど似たような感性を持った野球ファン同士が巨人対阪神に別れて、「歴史認識問題シリーズ戦」では互いに相手チームに毒づき合っているという構図ですね。どちらもにも品性はあまり感じられません。

まあでも、「敵側」にとっては、「慰安婦イシュー」は「戦略」(「日本にインネンつけ続ける」という大目的)中の「戦術」のひとつでしょう。そしてこの問題でホットなのは実は極東だけ。「約192カ国-数カ国=世界の住人たち」にとっては、ほんと他人事ですよ。そして現実の世界の一般の住人たちは「〈歴史を学ぼう〉などという、お勉強的世界」なんぞではなくて、そういった「観念の世界」ではなく、「自分の実際の生活圏」に存している興味関心と直結している「現在の日本が自分に提供してくれている価値」にしか関心ありませんから。最近の台湾アイドルのレイニー・ヤンの事件(彼女は4年前の出来事を「今」叩かれてるわけです)は「現実の生活感覚(正直さ)」が「勉強馬鹿たちの観念世界(建前)」から攻撃を受けていることを示すよい見本です。

(誤解なきよう付け加えておきますが、私は教科書の記述を順当なものにする運動に反対しているわけではありません。それどころか、扶桑社版の教科書運動がおこる以前、まだパソコン通信しかなかった時代に、中学社会科の教科書の記述がずいぶん変になっているという事実は、その当時の「会議室」[ニフティ・サーブ内]でもたびたび指摘してまいりました。)

私は宮崎県民ですが、「遠い地方の住民」のことは分かりません。たとえば群馬県はどのへんにあり、群馬県民とはどんな人びとであり、群馬県はどんな歴史を持っているんでしょう。分かりません。なぜ分からないんでしょうか。それは「さしあたって、自分の生活現実に鑑みて〈そんなことにはまるで興味が湧かない〉から」です。関心があるなら〈お勉強する〉でしょう。日本国内においてさえ「一般の人びとの〈お互いの生活圏〉への関心の持ち方」というのはこんなもんです。群馬県民の方々も他の地方に対しては宮崎県民の一般の人と同じように暮らしているわけです。

しょせん、「他人」なんですよ、外国というのは。「それが分かっていない人びと」の吐き散らかす「親米」とか「反米」という「政治用語」は、どっちにしろ〈対人恐怖症〉にかかっている人が用いる言葉としか思えません。彼らは、「日々、人前で赤面し続けている」のです。

つまり今の日本の若い人たち(自動車やエレクトロニクス、アニメなどを世界に供給している人びと)が行っている振る舞い、彼らが「現在、世界の一般住人たちに提供している価値」による「影響力」の方が本当はずっと「政治的宣伝力」も持っているってことです。特定国と日本の反日日本人にはそれが理解できませんから、実は「世界的には何の政治効果もない」にも関わらず、「シュースポスの神話」のごとき、岩石運びの徒労(「歴史問題への言及」)を何度も何度も繰り返すことになります。現実の世界は彼らの徒労を無視して先へ進むのです。そして20年後30年後50年後と世代が交代していけばいくほど、「このやり方」の効果は、ますます薄れていきます。

ところで「自称保守派」の内部に紛れ込んでいる国内の「隠れ左翼人」の問題です。私が思うに、どうやっても日本はアメリカ風にはなれませんよ。今でもまったく似ていない国です。国民の気質から何から、ほんとに似ていません。日本の知識人はヨーロッパ型が大好きです。経済観念にしても、唯物論の信奉者である点においても。ヨーロッパではいまやほとんどキリスト教徒はマイノリティー派なのに、あいかわらず日本の知識人は「やつらは一神教だから、うんぬん」と馬鹿なことを言い続けていますが。信仰の価値というものをいまだに保っているのは、南北のアメリカ大陸に住む住人たちの方であって、ヨーロッパ人たちではないということを区別して議論している保守派論客というものを私は知りません。

意外なことでしょうが、17世紀のヨーロッパの言語の発音を継承していまでも用いているのは、カナダ人やアメリカ人たちの方なのであって、本家のヨーロッパの方はフランスもイギリスも17世紀当時の発音から変容を遂げて新しい国語をしゃべっているということも特筆すべき点です。言語的により古くさい発音を用いてしゃべっているのが「新大陸」に住む住人たちだというのは、大変におもしろい事実であります。ミシガン大学社会調査研究所が21世紀の初頭に出した調査結果によりますと、ヨーロッパ人は、ロシア、東欧圏を除いて、どの国でも国民の7~8割が宗教は----彼らの場合は具体的にはキリスト教になりますが----生活に必要なものではないと回答する時代に突入しております。一方南北アメリカの国の人びとは6~7割の人が宗教----言いかえると「彼岸の世界を敬いたい、という感覚を持つこと」----は生活に必要だと答えております。(私は昔、元記事を地元の夕刊紙で見たのですが、現在ネット上ではほとんどその「価値観調査」の言及記事が見つかりません。ということで、内容報告については、はなはだ簡略化されていますが、徳行寺だよりをご参照下さい。)

日本はどちら型に入るでしょうか。もちろん唯物論者の巣窟となったヨーロッパ型であります。同じ質問に対して日本人回答者たちは、8割以上の者が「必要ない」と回答しています。調査対象73カ国中「必要ない派」2位という結果でした。建前共産主義の中国人回答者の結果はさらに日本人の上をいく唯物論者ぶりで、73カ国中「必要ない派」1位。

つまりもし「世界唯物論者コンテスト」というものが行われたとすれば、1位 中国人、2位 日本人、という結果になり、「その唯物論者ぶりにおいて、日本人はヨーロッパ人をすでにしのいでいる」と言えるのです。この調査結果の先に示される解釈というものは「精神生活の前進なのでしょうか、それとも後退なのでしょうか」。「社会科学」は「事実(調査結果)」を提示する技術を持っていますが、実のところ「その意味を解釈する能力」はありません。この調査結果を見て「日本人の精神的進歩ぶりに大満足する人びと」も日本にはたくさんいるでしょう。

感情生活の面でも日本はアメリカとはまったく似ておりません。ヨーロッパ人とは意気投合できるでしょう。「唯物論に基づいた世界観を愛するという進歩的な感情生活」を肯定するという点において……。

アメリカ型市場主義経済といっても、そうやって毒づく人の「理解の仕方」が順当なものなのか、その人の文章を読んでもそもそも「その人がどんな理解の仕方をしているのか」よく分からないものが多いですしねえ。それに「アメリカのような経済をやっていると格差のために国が滅ぶ」というのなら、その元祖のアメリカは「日本よりももっと先に滅ぶハズ」ですが、この理屈はどうなんでしょうか。それとも元祖は滅びないが日本は滅びるのでしょうか。それはなぜでしょうか、その辺の理路をもっと納得できるように書いていただきたいのです。彼らは代案として「新しいこと」を言っているのでしょうか。まったく何も新しいことは言っておりません。アインシュタインのように経済学の「公理を疑う」ことにって経済学の個々の用語の概念からすべてを180度回転させて、新視点による「まったく聞いたことのない経済理論」などを語っているわけでもありません。彼らは昔学校で勉強した知識のみにたよるばかりです。なぜ、「公理を疑う」という骨の折れる作業から入らないのでしょうか。出来合いの経済学の教科書を振り回すだけで、本当に現実を抜本的に変えることができるでしょうか。

「アメリカ型を行うと国が滅ぶ」なら、社民主義で反米主義者の保守派の方は『正論』とか『諸君』とかで気炎を上げているだけで、その元祖アメリカがまさに「アメリカ型経済」で滅亡するのをただ待っていればいいわけです。彼らの言うところの「アメリカ型市場〈原理主義〉経済」というものを「アメリカ」が「本当にやっている」とすれば……。

それは彼らによれば「亡国の経済体制」なのですから、21世紀初頭の今日、マルクスのようにここ日本においてふたたび「予言」をしている彼らは 、「予言」をして「嫌いなアメリカが滅ぶ」のをただ待っていればいいわけです。彼らによればアメリカは理論的に滅ぶハズです。

ということはこれは忍耐ゲームであって、「待っていさえすればアメリカはその資本主義に内包する矛盾によって自己崩壊する」という理屈になり、なーんだこれは、大昔にカール・マルクスが資本論で言っていたことと同じ「予言文句」を表現を変えて言っているだけではないかという結論にいたります。

いつも感じることですが、自称保守派、本質経済左翼の方々の理屈は、純正左翼の論法に似ているところがあります。彼らの振る舞いはイメージ化すると、こんな感じです。

公園に一匹の犬がいるんですが、そこに先験的(アプリオリ)に猫嫌いの人物がやってきて、わめき始めます「あの猫はけしかん、あの猫はけしからん」。

あんまりわめくので指さす方向を見てみるんですが、「猫」はどこにもおりません。確かに公園には「生き物」は存在しているんですが、その猫嫌いの人は「犬」を指さして「猫は好かん、猫は好かん」と繰り返し、「猫にはこんなところがある。猫を放置しているとひどいめにあうぞ」とわめき続けます。でも「公園には猫はいない」んです。

それはとどのつまりアジテーションにすぎません。学問的な言説ではないんですよ。

経済観の変容の必要は感じます。しかし「世界経済」というものは、「国内社民主義」などというもので対応がつくほど簡単なものではないと思いますよ。
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「金の牛を作って拝め」とそそのかすは同胞なり

正しい歴史認識……という「言い回し」もまさに「戦後的言い回し」ではある。「正しい歴史認識」はいかにして行うのか。「教科書に〈正しい歴史認識〉を記述し、それを教師たちに学校で教えさせればよい」と戦後的空間を生きる平均的日本人は思う。「勉強馬鹿の時代」を象徴する、人々が安易に陥りがちな結論である。中国・韓国・北朝鮮という極東の勉強馬鹿(極東的近代学校教育システム礼讃者)が集う国々の統治者たちも、日本の平均的日本人と同じように「自国民の歴史教育」については「なおさらそう思って」いる。

「日本人は〈日帝時代〉に日本がやったことを私たちが習ってるようには学校で習うことがない」と韓国のテレビ番組でインタビューに答えたのはユンソナだが、これは以前、白人首脳の前で「日本人が主張するようなことは高校の教科書には書いていないんですよ」と答えて失笑を買ったノ・ムヒョンと同じメンタリティーである。(注:そもそも「日帝時代」という用語はなんぞや。日本の歴史教科書では使用しない用語である。ただし日本の左翼人たちは、昔から「日帝」という言葉を使っていたようである。「韓国の歴史用語は左翼用語から採られた」という「正しい歴史認識」も韓国の学者はちゃんと韓国の中学高校生に教えるべきである。)

この「思考態度の土台」に何があるのか。彼らは「典型的な勉強馬鹿」なのだ。教科書に沿って試験され、教科書通りに解答して満点をもらい、自尊心をくすぐられてうぬぼれる、それが利口な人々が繰り返し「近代学校システム」の内部でおこなってきた「パブロフの犬体験」である。「教科書は無謬の権威」「そのような教科書を作る学者もそれを使う教師もまた権威」なのである。だからこそ「学習成績の優秀な者、そしてその自尊心とともにひそかに自分を利口者だと自負している者たちの、この病気の罹患率が高かった」のだ。左翼運動の中心主体が大学教授や大学生だったのも当然である。「彼らもまた勉強馬鹿だった」からである。

日本において歴史教科書が政治活動の道具として認識され始めたのは80年代くらいからであろう。しかし、戦後70年代くらいまでは、左翼人は子どもをオルグするのに「教科書」を特に用いてはこなかったということを現代日本人はちゃんと認識しているだろうか。

学者・学生・労働者を中心に「左翼にあらずんば人にあらず」という巨大な「正義妄想」が吹き荒れ、世情に本当の暗雲が垂れ込めていたのは、60年代70年代までであって、その頃の日本の政治上の騒乱といったら、今の世の中のような「蚊にさされたような事件」を「大げさにふれてまわるようなもの」ではなかった。

そんな「左翼にあらずんば人にあらず」時代があったにもかかわらず、当時の少年少女の精神世界はそれとは隔離(政治闘争劇に巻き込まれることから守られること)されていた。少年たちは漫画雑誌で戦争ものを読んで胸を踊らせていたし、あこがれの零戦や戦艦のプラモデルを作るのは当時の少年たちの「日常の一コマ」だった。けれども、「勉強馬鹿」を中心に「活字を通して世界像を描く」という振る舞いが得意だった人々がまさに「その勉学的振る舞い」によって、「日本たたき思想案出の急先鋒」になったのだった。「現在の日本たたき思想は、過去のある時期に日本人が極東地域に住む人々に教えた」……と私がいくら声を大にして訴えても、評判が悪いようである。「元祖」というものを自慢したがる日本人・韓国人も中学校や高校の教科書にそう書くべきである。「現在の反日思想もまた日帝支配下の日本人地下運動家たちからもたらされた。われわれは植民地時代から続くイルボンからもたらされた公教育システム(あるいは教員システム)を受け継ぎ、さらにイルボンから反日思想----政治的ごね方----まで習った」と。

中国共産党は初め「労働」の「働」の文字を持っていなかった。これは日本人が作った字で、中共側が日本の左翼本を研究して「よい字がある」と輸入した結果である。周恩来は中国で共産党に目覚めたのではなく、留学生として滞在していたここ日本で共産主義思想に出会って衝撃を受け、ついにそれまでの考えを捨てて留学生をやめ、大陸に戻り、共産党員として活動するようになったというエピソードをご存じの方がどれくらいいらっしゃるだろうか。周恩来の精神に衝撃を与え彼を共産主義者に変えたのは、日本の活動家たちだったのである。戦前から続く日本の左翼人たちの極東地域における隠然たる影響力----事象の裏側を大向こうに気づかれずに上手に駆け抜ける技術----を甘く見てはいけないということである。

「いまでも日本人が巨大なマスコミの力を利用してわれわれ民族の援護射撃、それどころか〈新手の政治的ごねくり〉の提案までしてくれるので、われわれはそれに乗っかるだけでいい」と大陸・半島人は思う。日本人は「騒がれるのに弱い」ので、オオニシとか米国記者の権威を借りておどしをかければ、またへし折れるよ、と知恵を貸すのもまた日本人だった。(とはいえ大きな見取り図から言えば、結局彼らのやっていることは、世界政治への影響力から言えば、まあ、「蚊のようなもの」ではある。蚊から血を吸われて「きゃー死ぬ、死ぬ」なんて情けない声を出さないでいただきたい。時が来たら呼吸を見計らって両手のひらの間で、パンとおしつぶしゃあいいのだから。裏に回って人の足を引っぱる能力は、古代の豪族社会の昔から日本人のもうひとつの伝統的才能であった。しかしそれを「正しい歴史認識」と言って人前で自慢する策士はいない。これはいわば秘伝の術なのだから。)

戦後すぐに「国民の左翼思想へのオルグ運動」を大声を出さずに「学校現場」で実践してきたのは、マルクス思想、マルクス的世界観、マルクス的陰謀論に魅了された人々だった。マルクス思想は、戦後治安維持法廃止によって解禁状態になり、「大学の正式の講義科目」にさえなった。戦前のサブカル思想は、「戦後体制の中で正式のカルチャー世界に格上げされた」のである。朝鮮半島は軍事政権になったので相変わらずサブカルのままだったが、その思考方法は浸透し続けたのである。そして80年代に軍事政権から民主化へと韓国は至るが、それは「韓国教育界のおおぴらな左翼思想(帝国主義理論)化」ということでもあった。戦後の日本が、「共産主義者解禁」による「日本のおおぴらな左翼化」をなし遂げたように、韓国はいつも日本のあとを数十年後れながら「思想遍歴」を繰り返している。

参考に供するために『Will』5月号(平成19年)に掲載された西岡力氏の発言の冒頭部を引用しておく。

たしかに「慰安婦」という人たちはいました。しかし、「慰安婦問題」というのはありませんでした。「問題」というのは 現代になっても解決せねばならないことがあるかどうかということです。 世界には貧困のために不幸にして自分の性を売らなければならなかった人たちは、歴史的にも、現在にもたくさんい ます。そういうこととは別に、日本が国家として権力を使って慰安婦に強制的に性を売らせたということがあれば、そ れは問題です。もし、そういうことがあれば「慰安婦問題」となるでしょう。しかし、なかった。ですから「慰安婦」はいた けれども「慰安婦問題」はなかったというのが真実です。

では、そのないはずの「慰安婦問題」がいつから出てきたかと言えば、1980年代からです。韓国の政権はずっとだっ
たと言いますが、一番激しい反日だったのは李承晩政権です。反日と反共を国是としていて、そのため李承晩政権 は日本と国交正常化しなかった。そして、日本に対して多額の賠償請求をしていました。

その李承晩政権ですら、外交交渉の場で「慰安婦問題」を持ち出したことは一度もありません。その時代の人たちは
「慰安婦」の存在は知っていましたが、それを「問題」化して外交交渉の場に持ち込めるとは思っていなかったので す。 李承晩政権が日本に要求していたのは、徴用された人と徴兵された人たちの補償と未払い賃金です。徴用と徴兵と いうのは権力によるものですから、外交交渉で補償を求めるのは当たり前です。

しかし、いわゆる「強制連行」というものについても、官斡旋や自由募集については補償を求めていなかった。そもそ
も李承晩政権が日本政府に過去の清算としての要求を網羅的にあげた「対日請求要綱」の中でも「強制連行」という 言葉は 使われていません。この言葉も当時、なかったものです。 そして「慰安婦問題」についても、「対日請求要綱」の中にはまったく出てきません。

李承晩政権は反日だから、日本と国交正常化しない。日本からの援助は一切求めない。本当の反日というのはこう
いうものでしょう。 そして、朴正煕政権になって、植民地支配に対する反感はあるけれども、いまは反共が大義であってアジアの自由 主義陣営は団結すべきだという立場から、日韓国交正常化をしたわけです。日本も釜山に赤旗を立ててはいけない とうことから大規模に援助した。

その後、1965年から82年までの間は、歴史問題を理由にした反日デモが起きたことはないし、歴史問題で外交交渉
をしたこともありません。すでに清算はすんでいますから当たり前です。

韓国は反日で、ずっと「慰安婦問題」について言ってきたような印象がありますが、そんなことはない。すべては82年
から始まっているのです。(「すべては朝日新聞の捏造から始まった」P62-P63) 

戦後の日本ではマスコミ、そして小中学校、高校・大学の教師たちは「教科書に乗っていないアジテーション」を盛んに児童生徒学生の前で行うことができた。だがそうであるにもかかわらず、昔の小中学校の歴史教科書は昨今の教科書改革運動が起きた時代ほどには、その記述内容が中国、南北朝鮮寄りのいびつな状態にはなっていなかった。「零戦かっこいい」と少年たちは戦後も大声で叫んでいたのだから。(ちなみに私もそのクチだが。)

にもかかわらず一方で、60年代70年代までの世の中は、そんな戦後のサブカル世界にどっぷりとつかって生活していた児童生徒の世界とは別に、大学・マスコミを中心に左翼思想的情念に燃え上がり、日本を「政治的後進国」として憎むことはなはだしかった。当時の安保闘争の激しさといったら、現在の政治運動がどれも児戯に見えてしまうほど大規模で激しかった。なぜそんなことが可能だったのだろうか。教師たちは、別段「正しい歴史教科書」があろうとなかろうと、授業の中で「左翼的な解釈とアジテーション」を存分に行ってきたからである。そしてむしろ義務教育で使用する学校の教科書が今よりもずっとまともだった時代にこそ、左翼運動の全盛期時代があった。これは不思議な事実である。

歴史教科書が現在大声を出している人たちの理想とするものに変わっても、「教師の精神」が変化しなければ、相変わらず、左翼教師たちは、「教科書に載っていないアジテーション」を繰り返すであろう。実は、教科書に書いていることではなく、この「教師のアジテーション」「物語めかして道徳的追及を繰り返す教師の情念」こそが一番力を振るってきたのだということを、教科書改革運動家たちはちゃんと把握しているだろうか。そうでないなら、勉強馬鹿的な態度で、「システム(教科書の記述内容)」を変えれば「おのずと正常な体制ができあがる」という「社会主義者たちと同様の唯物論的理屈」に落ち着くことになる。まさに、左右はそのような「社会理論(唯物論)」をめぐって政治闘争をしている最中である。その余波をかって隣の中国や韓国・北朝鮮の政治勢力を巻き込みながら……。


教師として子どもの前に立っている「生きた人間」が子どもの前で「どんな精神を持っているのか」ということの方がずっと重大な問題なのである。左翼的情念に燃えている教師たちの情念が変容を遂げない限り、彼らは「新しい教科書」という目の前におかれたハードルを大股でぽんぽん飛び越えていきながら、「情念に満ちた目的地」へ子どもをいざなうだろう。「教科書などというハードル」なんぞは簡単に飛び越せるのである。授業自体を彼らがコントロールし続ける限り。

教科書ではなく、教師を変えなければならない。

これがもっとも効果的な解決策である。それにも大前提がある。「この1世紀来の教育システムに〈機械的に適応する〉こともって教育だと思い込んできた統治担当者や知識人を含め一般の日本人の深まらない教育概念」そして「教員養成と採用システム」の「大変革」をこそ行うべきなのであって、「今の子どもは勉強しない、どうのこうの、うんぬん」の話ではない。

エロ教師の横行を呼び寄せたのも、「一面的な学力のみ」で「人を採用する」という「楽な選別システム」(会社に就職するのにまでペーパーテストを課すという欧米の就職慣行にはない「思考態度」もまた「戦後日本的」である)、「採用者側の人間識別力の力量」がたいしてものを言う必要がない「〈戦後日本的〉な安易な工業的人選システム」がその元凶なのだということを今後は本気で考えようではないか。

頭から湯気出すほど大げさな話じゃない

君らには見えないか。大きな体をして、小さいことに心配し、あげくの果てに煩悶しているものが、世の中にはずいぶん多いではないか。だめだよ。彼らには、とても天下の大事はできない。

つまり物事をあまり大きく見るからいけないのだ。

物事を自分の思慮のうちに、たたみこむことができないから、あのとおり心配した果てが煩悶となって、寿命も何も縮めてしまうのだ。全体自分が物事をのみこまなければならないのに、かえって物事の方からのまれてしまうからしかたがない。これもやはり余裕がないからのことさ。(勝海舟 氷川清話)


拉致では横田夫妻はアメリカの「共和党」に助力を求め、今この時期に慰安婦問題を利用して日本たたきを画策する勢力は民主党に助力を求めて互いに綱引きを行っている、ってだけのことでしょう。日本、韓国の双方の勢力にとって、

アメリカは〈利用価値〉がある

と思っているからこそ、横田夫妻は渡米し「共和党」と面会し、韓国系のロビーイストは民主党員と面会したわけですよ。裏で攪乱戦略を指揮しているのは例によって北朝鮮シンパ組ですよ。これには韓国人も日本人も中国人も加わってますよ。朴正煕を韓国人を使って暗殺させたようにこずるい連中ですよ。今回は日系アメリカ人を使って日本を攻撃させるところがまさに仕掛けですね。こういうことを行っている勢力を「ある民族・国民」と思うと間違いますよ。今になってトルコの話が出てきたのも、まさに攪乱戦術ですね。「これら厄介者たち」の本質は、正確には「民族共同体を越えた思想集団」なんですから(したがって「民族感情は利用すべきもの」にすぎません、彼らにとっては)、何かっちあ「アメリカの陰謀」とか「アメリカの傲慢」とか言って溜飲を下げたがる人はそろそろ目を覚ましてください。「現実世界」はもはや「そんな時代」じゃないんですよ。「今回のような話」は、もうすでにずっと前から「ここ日本においても」おなじことが起きてるじゃないですか。この問題の本質は「延長戦」です。日本では横田夫妻は自民党に頼り、在日勢力は(韓国系北朝鮮系問わず)社民党、共産党あるいは日本の民主党の一部とそのシンパの新聞およびテレビ報道系マスコミ勢力に対してロビー活動を行う。現在「場所を変えて戦っている」だけですよ。「この問題」について、最初に火の手が上がったのはここ「日本」なのであり、それが半島に飛び火し、政府は「手打ち式」になるはずだった談話を出したが、相手はその約束を守らず、いまや太平洋を渡って北米で「精神戦」を行ってるだけの話。

アメリカは「日本VS韓国+北朝鮮」の精神戦の舞台になっているだけであって、けっして「戦いの当事者」なんぞじゃないんですよ。お互い敵同士(日本VS韓国+北朝鮮)で双方が「他人」(米国)を利用し合っておきながら、「裏切られた」なんぞ言うな、と言いたいですよ。

日本は横田夫妻のアメリカ政府(共和党)への働きかけやドキュメンタリー映画製作などの活動を通して「北朝鮮非難決議」の採択を成功させた。日本側がアメリカ(共和党)にねじ込んだ結果です。世界は一丸になって北朝鮮に対する拉致非難を行ったばかりのところでした。そんな目にあっても、北朝鮮は「かえるのつらにションベン」状態でしたがね。それに対抗する「日本非難決議」を今が非常によいチャンスだと思って民主党に動いてもらうことで、これにぶつけてバランス効果としようと、相殺効果をねらっている人々がいるんですよ。民主党は対北朝鮮融和推進派で、彼らの主張していることはちょうど日本の左翼勢力が盛んに吹聴していることと実はパラレルなんですから友とするにいいパートナーでしょうよ。帝国主義理論(それはもともと左翼の論理ですが)で世界の動きを解釈し、アメリカの活動を解釈し続ける限り、どれほど「日本愛」を叫ぼうが、彼らマルクス由来の世界観の信奉者たちの思うつぼですよ。「世界の統治実態をどうみるか」ということに関しては右翼の世界観も左翼の世界観と同じですから。つまりマルクス由来の世界観ですよ。現在の日本の右翼人には自覚がないようですが。

まあ

「日本の右は左と同じ〈帝国主義論(マルクス史観)の信奉者たち〉あるいはそれに由来する感情を是として反省しない人々だ」

ってのは、私のかねてよりの持論ですがね(過去のエントリー参照のこと)。 
http://matcha.blog.shinobi.jp/Entry/20/


自称「反米保守」の、かつ「社民主義者」という「奇妙な存在(実質社会主義者)」も皆、〈純正左翼〉と〈同じ思考枠〉あるいは〈感情線〉に沿って思考する〈思考のるつぼの仲間〉なんですよ。総称「保守陣営」への、元左翼運動(あるいは感情)体験者からの流入組の数を、彼らが「親米保守」といって罵倒している人々の「若い頃の活動歴」と比べてみてください。「元左翼」あるいは「元左翼シンパ」だった人々を抱え込んでいるのは圧倒的に「現在」の自称「反米保守」派の方なんですよ。学生時代「反米愛国」の旗を振って騒乱を起こし、結果彼らの親をハラハラさせていた連中が、「歳食って」、外見(そとみ)には、左から右に移って「反米愛国」と叫んでるように見える。だが、ほんとうは、

「彼らは〈社会主義〉を、あるいは〈そこから生まれる反逆的な世界感情〉に耽溺したがる傾向(自己愛)を捨てていない」

これこそが、「彼ら反米保守派の真実の姿」ですよ。

彼らの「自己韜晦ぐせ」は直りそうにもない、純正左翼人の「自己韜晦ぐせ」が直りそうにないように。

右=左。

前期-近代意識通過中の極東国家群と比べる愚

日本の小学生は中国や韓国の小学生よりも「学ぶ意欲」が低い――。財団法人「日本青少年研究所」(千石保理事長、東京都新宿区)の調査で、学習を巡る子供の意識に日中韓で大きな差があることが分かった。近年、日本の子供たちの学力低下が取りざたされているが、中韓両国に比べ「学力」以前の「意欲」の低さが浮き彫りになった形だ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070307-00000099-mai-soci

上記引用は最近、ネットに載った極東3国の小学生の意識調査だ。

前世紀の80年代になってやっと民主化した国、そしていまだに「言論の自由」も「国民の国会」も持たない国家に生きる小学生と日本の小学生とを比べて、「国力や国民の民主化意識の土台などを比較して、3国ともに成熟した対等とも呼べる、世界の先進諸国群の国民と同等の近代意識上の土台を持ち、したがってこの極東の3国は無条件で意識比較調査ができる」などと、なぜ「日本の利口な人々」は平気で「思い込める」のか。いや実際には彼らはそもそも「そんなことさえ意識したことがない」のだろう。ではいったいそれは「何のための対照比較調査」なのか。

このようなアンケートばかり行っている彼らは「本当に利口な人々」なのか。彼らがこういうアンケート調査ばかり行っているという「彼ら自身の振る舞いの結果」から見えてくる一番の憂慮すべき問題は、日本の小学生の意識ではなく、「アンケート調査をやって発表したがる彼らの意識のあり方」のほうなのではないか。

いったいなぜ、この種のタイプの「日本の利口な人々」は(しかも教育関係の仕事に携わっている人々は)、このような決して「国民の政治意識や国家意識が〈先進諸国並みの穏当さと成熟〉に達していない、2等あるいは3等国家」を、日本との「対照サンプル」として、あるいは「同等な近代国民精神生活の所有者の住む国民として」選ぶことができると思えるのか。教育問題なんぞは特に、「国民の精神生活問題」と直結している。近代社会は、「国民の統治のされ方」が子どもの教育環境に絶大な影響力を行使しているのだ。その国家が自由で開かれた、それぞれの国家間に歴史的に横たわる互いのスネの傷についてのあれこれに対して「それを言っちゃあおしまいよ」ということ理解しているサバけた国民による統治を受けている近代国家----二度の「対国民世界戦争」という失敗を経て欧米・日本みなそういう意識状態に達した国家群となったのだ。だからこそ彼らは過去のイシューではなく今起きているイシューにこそ関心と政治力を行使することに全力を注ぐのである。あとのマラソンの比喩でも登場してくるように彼ら「第1グループ」の仲間意識に達していない途上国家群の中には「精神的な幼さ」ゆえに「その区別をつける」ことができない国家が多数存在するのである----なのかどうかは、子どもへの歴史教育事情にも強い影響を与える。彼らはそもそも「一体何のためにそんな3国間の意識調査をしているのか」、これがよく分からない。

彼らはもしソ連が健在だったら、ソ連の小学生とも比べるに違いない。欧米の諸国家群に生きる人々は、高校生の学力調査では3位内にも入ったことがないのを、「憂慮すべき大変なこと」と思わない、それどころか「真剣な話題にもしない」のはなぜかと

「なぜ日本の利口な人々」は考えることがない

のか。「それ」が「問題」である。2等3等の、はなはだ世界的に信用のない国家群の統治下に生きている子供たちが上位3位内に入っているのに日本はそうなっていないことを、「日本の勉強馬鹿たち」だけが、教育問題についてそのような「統計」を持ち出し、意味もなく騒ぐのである。

だがまさにこのような人々こそが日本の教育体制を腐らせてきたのだ。「何が大事かが一向につかめない人々」に日本の教育界が牛耳られてきた結果である。

日本は極東の「勉強馬鹿国家群」から決然と決別し、「たえず〈どこかの何か〉と〈おのれの何か〉を比較して、あれこれ悩まずにはおれない性癖」を克服しなければならない。それこそが「新しい脱亜論」である。

(補足)「前期-近代意識」というのは私の造語である。現代社会には「国民精神の成長史」などというような学問は存在しない。「前期近代」とは、それまで身分制度のもとで暮らしてきた人々が「対等な意識」を所有するようになった時代、すなわち近代の初期の「国民意識発生時」の意識状態のことである。戦争を専門に請け負う「戦士の階級」の消滅と身分制社会の消滅は連動している。近代の戦争がこれほど大規模に、かつ悲惨な結果を招いたのは、自然科学の発展による兵器の革新の結果だけではなく、「国民意識の誕生」が、「兵隊の大規模な動員」を可能にした結果である。2度の世界大戦はそのように「近代に生まれた国民意識の結果」でもあるのだ。そして世界にそのような悲惨をもたらした真の原因者たちであった西欧人たちは、その「近代前期の意識状態」を克服し、新たな近代意識を創造しようとしている最中である。身分制度下の国民は、直接国家による兵隊動員を行うことはなかった。「戦争」は「中世まで」はある意味「聖なる行為」でもあったからである。下賤な者は騎士になることはできず、武士になることもできなかった。それが「新時代」へと変異し、その初期「その国民意識(前期-近代意識)の誕生」こそが、初期時代の西欧近代史に顕著に見られるように「国民(民族)国家同士による」絶えざる戦争を招いたのである。その仕上げが2度の世界大戦だった。

戦後になって近代史に登場することになった新しい国家群、発展途上国家群のなかには、そのような、戦前までの近代社会において、西欧人や、当時極東では唯一「そのような近代国民感情」を西欧人たちと共有することになった日本人が獲得した「新しい意識」----だからこそ日本は欧米人と戦争することを可能にする「精神的能力」を持ったのである----をいまようやく獲得しつつある第2グループ、第3グループが存在するのである。

欧米諸国と日本は、その初発の第1グループに属していた。それはちょうどマラソン・レースで、グループ集団がいくつかの団子状に分かれて走っているようなものである。マラソン・ランナーの集団が走るのはアスファルトの路面という「物質」だが、「近代国民精神」という「目に見えないもの」を得た集団が、あとからいくつかの集団に分かれて、すでに第1グループが通りすぎた「精神状態」をあとなぞりするのである。

もし「国民の精神生活」において問題行動を起こしがちな国民を見つけたなら、「このような観点」から、彼らの精神発達史の結果として彼らの行動を解釈してみるべきである。「それを言っちゃあおしまいよ」感覚を持っているのは何も寅さんだけではない。戦後、近代意識生活を再開した欧米諸国も日本もそのようなマナーをもって「大人として」戦後世界で振る舞って生きてきたのである。「思春期時代」のような----それこそが戦前の欧米諸国と日本の陥っていた意識状態だったが----感情を持って振る舞わずにはおれない発展途上国家群が極東にも存在する。思春期の子供を持つ親が、この厄介な一時期を生きている子供たちに手を焼かされてきたように、現代の世界諸国家間の「関係性」もそれになぞらえて眺めることが可能である。

極東の諸国家群の「国民精神の達成地点」は「けっして同一水準ではない」ということが分からない人々(大人)が日本には多数いることが問題なだけである。日露戦争終了時における「国民意識の爆発」、たとえば日比谷焼き討ち事件などを思い描いていただきたい。極東の「思春期国家群」は、日本が100年前に到達した「精神の発展途上中に味わう国民感情」に、いまようやっと達しただけの話である。日本と欧米は「手さぐり状態」で、「その場所」を通過したので、「世界大戦という悲惨な失敗」を甘受しなければならなかったが、現在の発展途上国家群が「真の自己意識」(克己感情)をもてるほどに成熟すれば、また極東アジアの諸国民の精神発達史も書き換えの時がやってくるだろう。それが今生きているわれわれが死ぬまでに起きるかどうか、それは分からない。親あるいは大人は子の成長を待つ。馬鹿な振る舞いをする青少年はしかるべき権威で「正しい理路と感情を携えて」たしなめる責任が親や大人の側にはあるだろう。現在の大人にもかつて子ども時代があり思春期がありそして、その時期に仲間同士の暴力にまみれ、苦い失敗を犯した。「屁理屈ばかり並べて親の世代を攻撃する時期」にまで「成長できた子ども」も、いつか「自分の馬鹿さ」を知る、そうして初めて親たちとも敬意をもって話ができる状態に「移行」できるのである。親が持つべき意識と振る舞いは、そういう時期に達した青少年たちに対する「忍耐」と「正しい指導」である。「正しい理路と感情」も持たずに、「意味もなく厄介な青少年に迎合する」のは「正しい青少年への対処」ではないということは、戦後の日本の青少年への教育問題においても、日本の大人たちが直面させられてきた問題ではなかったのか。

関連記事 大東亜戦争とは何だったのか
http://matcha.blog.shinobi.jp/Entry/5/

彼らはそれで何がしたいのか

「彼ら」が言うところの「教育再生」とはそもそもなんだろう。私には結局のところ、「明治以来の〈教育観〉維持会議」「明治以来の〈教育観〉維持機構」にしか思えない。

一日3食食べ、食卓に四つ足の肉を並べる習慣は、昔の日本にはなかった習慣だ(もちろん肉食については仏教伝来以前の日本はまた異なった世界だったようだが)。比喩としていえば、西欧システムの教育体制が導入されたということは、西洋の思想の影響を受けて食習慣が変わり、「一日3食食べるのがよいと思われるようになったシステム」に変化したということだ(一日3食方式は江戸期からだということは分かった上での比喩である)。日本人は、西洋産の自然科学という新しい食い物も食うようになった。そのことによって日本人は唯物論も同時に受け入れた。その後1世紀以上の時が過ぎた。そして現代、「日本の子どもたちがおかしい」という話になった。だが彼らは「学力とは何か」という具体的説明もせずに、「明治以来の一日3食システム」という「外枠」は「踏襲」したまま、「食っている量」が減ったから「食わせる量を増やせ」と言っている。「そんな話」を「再生」などとなぜぬけぬけと言えるのか。再生ではなく、ただの「分量調整」ではないのか。言ってみれば逆ダイエット提言である。彼らの言うことが本当に実施されたとしても「教育体制の本質」は以前と少しも変わらない。そして彼らは「教育思想」「教育観」という「大枠」には何ひとつ手を付けようとしない。「教育観は明治以来の西洋式のままでいい」と、そう思っているのだろう。しかし「そういう彼らの思想」こそがまず変わるべきものなのではないのか。

そして罰則規定である。あすこで文部科学省が「やってもよい」とお墨付きをあたえた罰則なら、30年40年前に「普通に行われていたこと」ではないか。彼らは「すでにずっと行われてきた教師の振る舞い」を「ただ追認しただけ」で「再生」という言葉を吐くつもりだろうか。

韓国映画に『マイ・ボス マイ・ヒーロー』という映画があるのをご存じだろうか。韓国の高校教師がとにかく高校生をなぐりまくっていた。「ああ、これってかつての日本の高校と同じだよな」と思って気分が悪くなった。韓国の教育システムは、戦前の日本の統治システム導入とともに、教育システムもまた「そのまま日本から持ち込まれたもの」である。『冬のソナタ』でヨンさまが学生服を着ている姿をみて、「なんでコイツ日本の学生服を着てるんじゃー」とブッ飛んだ方もいるはずである。

韓国の左翼運動に「思想的土台」を与えたのも日本である。彼らは、日本統治時代に身につけた学習体験によって、日本語で「日本の左翼本」----「世界をどのように感じ眺めるべきか」ということが煽動的に書かれた書物----を読むことができるようになっていた。「恨の文化」なんぞ幻影である。彼らに「今の感情をもたらしたもの」は、彼らにとっては「生まれたての近代精神」そのものである。「われわれは国民である」という近代人としての自覚感覚である。その感覚の上に、左側から注入された帝国主義史観で近代の極東史を眺めると出てくる「情念」に、「恨」などというニセのレッテルをかぶせて自己韜晦しているのである。現在彼らが「恨」といって日本を道徳的に責めようとしている振る舞いは「左翼思想」の裏張りをされて巧妙に「日本経由」で半島にもたらされたものである。江戸時代、朝鮮は徳川幕府の将軍の代替りごとに、挨拶にやってきていた。彼らはその当時別段「歴史的恨み」を心の底に抱いて将軍に挨拶していたわけではない。

「歴史論争」などという、「戦後的近代勉強馬鹿たち」が----この点では右も左もない。近代的学校体制は罪深いものである----喜々として口角泡を飛ばして興じている振る舞いもまた、近代以前には極東にはなかった振る舞いである。近代といっても、戦前も「近代」である。しかし戦前、世界には「こんなふうに学問めかして歴史論争にうち興じる多数の勉強馬鹿的庶民なんぞいなかった」のである。「これらの人びと」は「戦後」に誕生した「新しい人種」である。「われわれ自身の振る舞い方」そのものが「戦後的な新しい現象」なのだということを、ひとまず理解した上で、右も左も相手の顔に汚いつばきも飛ばしてみるといいのである。

韓国の教育事情が日本に似ているのは日本の教育システムをそのまま独立後も踏襲したからである。日本統治が彼らの教育体制の土台になったのである。韓国の場合はさらに日本式をハイパー化しており、中国・韓国と高校生の国際学力検査トップ3のうちの二つに食い込んでいるが、そんな利口なハズの彼らの「世界政治における国民の精神生活の発展途上性」ぶりを見ると「そういうタイプの学力」なんぞ何の役にもたたないということがよくわかるハズではないか。

韓国の大統領ノ・ムヒョンが西洋の首脳たちの前で(アメリカ大統領やオーストラリア首相らの前で)歴史問題を持ち出し、ブッシュさんから「(そう熱くならずに)日本とじっくり話し合ってみたらどうか」諭されたら「でも自分が高校時代に習った教科書には(日本人が主張するようなことは)書いていないんです」と答えて白人首脳たちの苦笑を誘ったという「象徴的な話」が伝わっている。(世界高校生学力比較テストで日本を抜いて上位3位以内に入った韓国高校生と中国高校生。彼らの現実(真の精神生活)は哀れである。もちろん日本人の「勉強馬鹿ぶり」も笑えない事実である。日本を含め極東の数国は、奇妙な教育体制によって「勉強馬鹿」を量産している国々である。彼らは「国が与える教科書」を皆信じてエリートになった人びとである。そういう人びとを作るために生み出されたのが西洋の近代式教育体制のもともとの思想の土台だった。帝国主義時代の西欧近代諸国家では、そのような体制維持のために働く利口な官僚向きな国民が必要だったからである。だがそのような近代システムの生みの親の彼らはそういう思考方法からはすでに脱している。しかし遅れて近代化を遂げたアジアの諸国家、最近では特に中国や北朝鮮の例が顕著だが、彼らの国の官僚たちは「その利口さ」を国民の精神生活の真の発展のためには使わない。いや「魂の発展」がまるで追いついていないので、そもそも「正しく使う能力(精神力)」がないのだ。かえってその利口さを国民の抑圧に使うばかりである。)

ひるがえってこの日本において、「本当の教育現場」を知らずに現在大声で教育提言をしている彼らは、「ただ自分が子どもの頃どんなふうに教育されたかという思い出を語っているだけ」なのだ。自分が子どもの頃体験したやり方を「今の子どももすればいい」とただ安易な提言をしているだけなのである。

これが「明治以来の教育システム」によって教育され続け、ついに学者と呼ばれるようになった人びとの出した結論なのである。私には、「あまりにも無残な姿」だった。学者なら「本質論」から入るべきだったのに、何一つ彼らの口から本質論が出てこない。

「今の子どもの姿」ではなく、「教育提言をする彼ら」の姿にこそ、「明治以来、現在まで続いてきた西洋近代初期の教育思想導入から独特の日本式発展をとげた近代教育の仕方」が「まったく失敗だった」という「結論」を見るべきなのである(これは先に紹介した兵頭二十八氏も言っていたことだった)。彼らは心がゆがんでいるのは「今の子どもだけ」で「自分らの心根はよい。自分は受験競争を突破してきた頭のいい人物だ」と思っているのだろうか、「私には思考態度において反省する点はない。だから自分たちには今の教育のゆがみを〈正す能力〉がある」と。

最近、中学受験熱が東京で高まっているというニュースがながれた。彼らマスコミ人たちは、3、40年前にはなかった学習塾の隆盛をなんとも思っていないようだし、むしろ、密かな希望としては、普通の小学校という公教育の場所では「受験対策」なんぞしてくれないから、自分たちの子どもも「そのような進学塾」でどしどし鍛えて「お受験」に受かってもらいたいと思っているのではないかと私は密かに疑っている。「塾で〈何を覚えさせられているか〉は知らないが、そもそも〈そんなことには興味はない〉。ただ〈試験に受かることのできる力〉を塾で身につけてくれたらよい」そう思っているのだろう。

調べてみるとよい。こういう報道をした東京のキー局でキャスターをしている既婚者たちの子どもは皆、学習塾通いをした「お受験」の親体験者かその予定者かその最中者のはずである。その他裏方をやっている人びと、朝日新聞や毎日新聞などで部長なんぞをやっているような人びとも同じである。ハチマキをして特攻隊員のように受験に送り出される小学6年生を、彼らは何度もニュース映像で流したが、「それはとても異様な光景に感じる」という感受性がもはやなくなっているのである。30年前の日本人はそうではなかった。「それは馬鹿げている」とちゃんと感じ、そのことを「問題化」して議論の俎上に上らせていた時代が確かにあったのである。今後はますます小学生の受験者が増えるということは、「受験技術伝授の低年齢化が進む」ということである。日本人はますます多くの人びとが馬鹿げた領域に突っ込んでいきたいようである。日本の子どもたちは「正しい子ども時代」「正しい子ども体験」を親たちの近視眼的対処によってますます奪われていくのだろう。

まるで石油危機のとき、トイレットペーパーがなくなるという流言によって、大挙して買い占めに走った主婦たちの姿とどこが違っているのだろう。どこの学校を出たかという「水戸黄門の印籠」が欲しくて駆けずり回る競争を「教育」という名で呼ぶのはよすべきだ。まさに西洋式の教育システム導入以後に、日本の教育が「加速度を増していびつになっていった原因」もここにあるのだから。近代式教育の生みの親たる西洋人は「水戸黄門の印籠」なんぞ欲しがらない。国家が率先して「水戸黄門の印籠システム維持の擁護者」となって現在にいたっているのが日本である。

「教育の危機」とは「そのことに気づくことができなくなっている」という「その感覚の麻痺状態」から生まれているのだ。

再生会議や再生機構のメンバーには、この3、40年で異様に肥大化した、この日本の受験産業の隆盛をどう思っているのか、聞いてみたいものである。塾と言えば、昔は書道塾、そろばん塾などが主流だった。それは小学生中学生の子どもたちの生活要求とも合っていた。彼らは現実社会と直結する習い事をしていたからである。「自分たちは大事なことを習っている」という実感も持てただろう。それは健全な社会だった。「そういう実感」を子どもたちから次々と奪っていった3、40年間が、有識者たちが再生(本当は「維持」)させたいと思っている教育システムである。だとしたら未来は暗いのではないか。

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