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1960年生まれ。宮崎県延岡市在住。
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ベトマン=ホルヴェークの遺著『世界大戦の考察』が近く刊行されるが、その中に次のような一節があるそうである。「ヨーロッパの混乱と共に、今、われわれの敵たちが世界に約束した、自由と正義の時代が始まる」。ヨーロッパの公的生活にその地位によって大きな影響力をもちえたベトマン=ホルヴェークのような人物をこの一節に見られる方向の考え方へ導くためには、世界大戦が必要だったのである。しかし彼はこの文章を書いたとき、すでに権力の座から退いていた。

ヨーロッパにおける民衆の生活状況は世界大戦によって生じたのではない。それ以前からそのような状況は存在しており、そしてそのことが大戦の原因となったのである。その生活状況は、今大戦を通してはっきり表面に現れてきた。

公的生活の指導者たちは民衆の生活の中に存在する諸力を見ようとしなかった故に、恐るべき破局を回避することができなかった。彼らは外的な権力関係だけに標準を合わせてきた。だが現実の生活は民衆の魂の在り様の中に根を下ろしていた。

混乱の中にひとつの明かりを点じるためには「民族の魂の在り方を理解せずに、公的要件を健全な方向へ向けることができない」という洞察をもつようにならなければならない。

ワシントン会議を考える人の眼は、今、極東の日本へ向けられている。しかしここでもその眼は外的な権力手段に呪縛されている。支那とシベリアにおける西洋の経済的利害関係を十分満足できるようなものにするためには、日本にどう対処したらいいのか、と人びとは問う。

もちろん人びとはそのことを問わねばならない。なぜなら、この経済的利害関係は存在しており、そして西洋の生活はそれが満足させられなければ、先へは行けないのだから。しかし人びとは、今日考えている手段によってのみ、この利害関係が何らかの軌道に導かれる、と思い込んでいる。本当は何が生じなければならないのか。

日本は現在、或る関係においてアジア的生活のもっとも前衛的立場に立っている。日本はもっとも外的にヨーロッパ形式を取り入れた。だから人びとは同盟、条約その他によって、政治的に西洋の慣例に従ったやり方で日本に対処できている。しかし民族魂の特質に関しては、日本は今でもアジア的生活全体に結びついているのである。

実際、アジアは古い精神生活の遺産をもっており、日本にとってはそれに優るものはない。この精神生活は、日本を満足させることのできないような状況が西洋によって作り出されたときには、強力な焔となって燃え上がるであろう。しかし西洋の人びとは単なる経済的な手段によってこの状況に秩序を与えることができると信じている。人びとはこのことによって、此度のヨーロッパ戦争よりも、もっと恐るべき破局のための出発点を作っているのである。

今日、世界全体にまで広がった公的用件を精神的衝動の介入なしに遂行することは許されないであろう。アジアの諸民族は、西洋が彼らに一般人間的な性格をもった諸理念をもたらすことができるなら、西洋に対して物わかりのいい対応をするであろう。彼らは、人間が世界全体との関連のなかで存在していること、人生はこの世界関連にふさわしく社会的に整えられねばならないことを理解するであろう。東洋の古い伝統の中にありながら、今、彼らが暗い感情に促されて革新を求めて努力している事柄について、西洋が何か新しいことを与えてくれそうだ、と東洋の人びとが思うとき、西洋人と東洋人とは理解ある協力体制を作り上げるであろう。しかし人びとがそのような東西協力による公的な働きを非実際的な人間の空想にすぎないと考えるならば、たとえワシントンにおいて、軍縮が世界平和にとってどんなにすばらしいことかと話し合ったとしても、最後には東洋が西洋に対して戦争をしかけてくるであろう。

西洋は自分の経済目標を達成するために、世界の安定を求めている。東洋は、西洋が精神的に価値あるものを東洋に提供すると信じたときにのみ、その経済目標に同調するであろう。今日の大きな世界問題の秩序は、精神生活と経済生活とを正しい関係に置くことができるかどうかにかかっている。

われわれが社会有機体の中での精神生活を本来の自由な基礎の上に置かない限り、このことは可能にならないであろう。西洋は精神的発展を続ける可能性を持っている。西洋は自然科学的、技術的な思考方法によって、これまでに蓄積した財宝の中から精神にふさわしい世界観を取り出すことができる。しかしこれまではこの財宝の中から、機械的=唯物的な見方しか取り出してこなかった。公的な思考は公的社会生活の中で精神的なものを経済的なものに組み入れた。西洋の素質に内的に強く組み込まれている精神の自由な発展は、精神生活の管理が社会生活の別の要因である政治や経済と結びついてしまった故に、妨げられている。高次の魂に関心を寄せるひとりひとりの人間は、東洋からその古い遺産を受け取り、それを外的な仕方で西洋の精神生活に接ぎたそうとしている。「東方からの光」はそのような前提の下では西洋にとっての貧困の証拠であるだけはない。それは恐るべき告発なのである。それは西洋が陰惨な利害関係によって、自分の光を見ようとしていない事実に対する告発なのである。

西洋における精神的価値を高揚させることこそ、人類が今日の混乱を克服して、何もできずに混乱の中でさまよい続ける状態から脱却する唯一の道である。この基調をもった意欲を非実際的人間のユートピア的=神秘的な夢想と見做す限り、混乱はさらに続くであろう。人びとは平和について語るであろう。しかし戦争の原因を取り除くことができない。最近のように、かつて権力をもっていた個人(注)がまたそのような権力を手に入れようと努力している様を見るとき、ヨーロッパの運命について深く憂慮せざるをえない。状況が極めて不健全であり、そのような憂慮をもたざるをえないことについて、私たちはよく考えなければならない。(1921年11月6日 週報「ゲーテアヌム」第一巻十二号)

(注)カール一世。オーストリア皇帝、1921年の復活祭と10月にクーデターによってハンガリーの王位につこうとした。

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11月に開かれるワシントン会議の結果に世界中の関心が集まっている。西洋列強のこの会合の議題として、軍縮と太平洋の問題があげられているが、人びとが真剣に考えているのは後者だけであって、前者は一種の道徳的な装飾品と思わなければならない。事実、北アメリカ、イギリス、日本という、今日の世界史がそこに依存しているところの三大強国の視線は、太平洋に集まっているのである。その際何に関心が向けられているかを調べてみると、その関心の中心になっているのが経済問題であることがわかる。人びとは経済上の利益に見合った軍縮を行うか、その利益に応じた軍備を行うかしようとしている。そうすることしかできないでいる。各国の国益に応じて、経済問題も対処していかざるをえず、他の問題は経済活動の光の下でしか、扱われざるをえないのである。

しかしヨーロッパとアメリカの思考方式は、それがそれぞれの歴史によってもたらされたままのものである限りは、アジアでこの上ない抵抗を受けることになるであろう。ロンドンの英連邦会議での南アフリカ連邦首相スマッツの発言は、多くの人にとって大変に重要なものであった。彼は、未来の政治はもはや大西洋や北海にではなく、今後の半世紀間は太平洋に目を向けなければならなくなるだろう、と語った。しかしそうであったとしても、この方向で為される西洋人の行動は、アジア人の意志と衝突するに違いない。ほぼ50年前から始まった世界経済は内的にますます発展していき、アジア諸国民をもその活動圏内に引き入れることになるであろう。

けれども民族の相互理解の現存する諸条件にさらに別の諸条件が加わらなければ、このことは良い結果をもたらさないであろう。アジア諸民族の信頼を得ることができず、彼らと共に経済活動行うことができないであろう。純粋に経済の地盤においてだけでは、或る程度までの信頼しか得ることはできない。経済だけでは人びとの意図に充分応えることはできない。アジア人の魂をつかむことができなければならない。そうでなければどんな対応もこの人たちの不信感によって覆いをされてしまうに違いない。

こう考えると、今日の世界問題は最大限の射程距離をもってわれわれに迫ってくる。西洋人は数世紀の間アジア人の不信感を呼び起こすような考え方をし、感じ方をしてきた。アジア人がこれから西洋の科学とその技術成果をどれ程知るようになろうとも、それは彼らの心をひきつけず反発させるだけであろう。彼らが同じアジア人仲間である日本人の中に西洋文明への傾斜を見るとき、日本人を真のアジア精神の背教者と見做すであろう。彼らは彼らの魂の生活の内的な豊かさに較べて、西洋文化をもっと低次のものと見做している。彼らは物質的進歩の点で立ちおくれていることに注意を向けない。ただ魂の努力だけを見る。そしてこの努力の点では彼らの方が西洋人よりも優位に立っていると思っている。西洋人のキリスト教に対する態度も、彼らの宗教体験の深さにまで達しているとは見ていない。この点で今彼らの知るところとなったものは、彼らにとっては宗教的唯物論でしかない。そしてキリスト教体験の真の深さは今、彼らの目の前には現れていない。

西洋の諸民族が魂のこの対立を世界政治の見方の中に取り入れなければ、解決不可能な問題の前に立たされてしまうであろう。この対立を考えることを感傷的だと思い、実際家には関係のないことだと思う限り、人びとは世界政治を混沌の中へ追い込んでしまうであろう。これまでは夢想家のイデオロギーにすぎないと思ってきた事柄の中に、実際的な力を認めることを学ばなければならない。

そして西洋はこの発想の転換をすることができる筈なのである。これまでは西洋の本質の外側だけが発達してきた。アジア人が理解しないこと、決して理解しようとしないであろうことを、西洋人は達成した。しかしこの外側は、これまでその本質をあらわさなかった内的な力から生じたものである。この内的な力を発展させることができなければならない。そうできたときには、物質生活の上でアジア人にとっても世界的な価値を示しているような成果があげられるであろう。

もちろんこのような主張に対しては、次のように応じることができる。「野蛮なアジアに較べれば、西洋には内面化した深い心情があり、高次の文化がある」。たしかに正しい。けれどもそんなことではなく、西洋人が深い魂の本質を発達させることができる、ということが大切なのである。それなのにこれまでの西洋の歴史は、魂を公的な社会生活の中にはもち込まないように人びとを仕向けてきた。アジア人の魂は子どものようであるかも知れない。表面的でさえあるかもしれない。しかしこの魂をもって彼らは公的な社会生活を営んでいる。私の言う対立は、倫理上善か悪かということとは無関係である。同様に美しいか醜いか、芸術的か非芸術的かということとも関係はない。私が言いたいのは、アジア人が外なる感覚世界の中でも彼らの感性や精神を共体験していのに対して、西洋人が世界に向き合うときには魂を内部にしまい込んだままにしている、ということなのである。アジア人は感覚を働かせて生きるときにも精神を発揮する。しばしば悪しき精神をも発揮するが、精神であることには変わりない。西洋人は内面生活においてどれ程精神と密接に結びついているとしても、感覚生活はこの精神を逸脱して、機械的に考え出され秩序づけられた世界に向かって努力していく。

もちろん西洋人はアジア人のために精神的な考え方や感じ方を身につけようとはしないであろう。そうするとしたら、もっぱら自分自身の魂の要求からそうしようとするであろう。決してアジア問題がそのための動機となることはあるまい。しかし西洋の物質文明は、その中に留まり続けることに満足できないところにまで達した。その内部で人びとは自分の人間性が内的に空虚になり荒廃していく、と感じさせられている。西洋人の魂は存在全体の内面化を達成するために、精神的な生活態度を求めて努力しなければならない。そうでなければ、進歩の現段階に立つ自分を本当に理解しているとは言えない。

この努力は西洋そのものが現代という時代によって要求されている事柄なのである。それが時間的に、世界政治上必要となった東洋への眼差しと一致しているのである。魂の生活を改革しようとする意志がなければ、これ以上の人類の進歩は不可能だということに西洋人が気づかぬ限りは、時代の大きな課題について救いがたい幻想に陥り続けるであろう。アジア人が魂の偉大さと呼んでいるものの前に西洋人が立たされたとき、魂が羞恥心にふるえないでいられるだろうか。

そして西洋人が物質上の成果の補足物として、古代東方の精神性や魂の遺産を受け取ろうとするのは、錯覚でしかない。西洋人が自分の科学、技術、経済能力を真に人間にふさわしいものにすることのできる精神内容は、西洋人自身が自分の中で発展させることのできる能力から来るのでなければならない。多くの人が「光は東方より来る」と語った。しかし外の方からやってくる光は、それを内なる光が受け取るのでなければ、光を知覚したことにならない。

魂のない世界政治は魂のあるものにならねばならない。たしかに、魂の発達は人間の内密なる要件である。しかし内面化された魂の生活を伴った人間の行為は、すでに外なる世界秩序の一端である。アジア人がヨーロッパ人から学ぶコマーシャリズムは東洋においては退けられる。精神内容を開示する魂だけに信頼が与えられる。中国を西洋列強に利益を提供する経済領域にするにはどうしたらいいか、という問題に答えるのが実際的なことだと思うとしたら、それは古い思考習慣以外の何ものでもない。アジアに住む人たちの魂とどうしたら理解し合えるのかというのが真に実際的なこれからの問題なのだ。世界経済とは、そのために見出さねばならない魂にとっての外的な身体であるにすぎない。

私の時代考察がワシントン会議で始まり、魂の要求で終わるのは、人によってはイデオロギー的な態度だと見るかもしれない。しかしわれわれの忙しい時代においては、今の理念蔑視者がいつ見解を改めて、魂を無視することは実際的ではない、と言い出すかもわからないのだ。(1921年8月28日 週報「ゲーテアヌム」第一巻二号)

昔(2002/11/30)朝日新聞の第一面「学ぶ意欲 転機の教育」欄に興味深い引用が載っていました。
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「おれ、勉強から降りたんです」
東京都内のフリーターの男性は言い切る。小学校時代から、勉強が必要だと思ったことはない。

「子供は勉強が仕事」

と言う先生に、

「金ももらえず、何もいいことが見えない」

と反発を覚えた。
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私が興味を引かれたのは、今回の記事のテーマ「勉強の意義、示す工夫を」についてではありません。先生が「子供は勉強が仕事」と言い、子供は「仕事なら、じゃあなんで金がもらえないんだ」と反発したという箇所なのです。おそらくこの先生の言い回しは多くの人が「子供時代」にどこかで聞かされた「説教」に違いありません。勉強したから「報酬」をくれとせがむ子どもも実際にいたでしょう。

けれども、そもそもこの「やりとりそのもの」が双方の大きな錯誤に基づいています。 そもそも先生は「仕事」という言葉を「賃金労働」という意味で使ったのでしょうか。単に「やるべきこと」というくらいの軽い意味だったのかもしれません。しかし、そういう意味で使っているオトナの側も「なぜ勉強するだけでは対価を得るにふさわしい価値」を「二人の関係性の中で生じさせる」ことができないかを明確に意識しているわけでもないようです。もし先生が県の公務員なら、彼は「市場」から金銭を直接得ているわけではありません。誰かが「市場」通じて「生じさせた価値」を「分けてもらっている」だけです。すなわち公務員は「価値の創造行為には直接には従事できない場所」で生きています。もし先生の側が「ちゃんと分かっている」なら、「子供は勉強が仕事」などというような誤解を生みやすい----すなわち子供の屁理屈を呼び覚ますような----説教は「意識的」に避けることができたでしょう。もちろん子供の勉強は仕事(賃金労働)ではありません。

子供が勉強する行為が「市場」において誰かに対するサービス行為として売りにだされる可能性があるなら、その子供は「勉強をしてみせるという行為」によって「それを必要としている誰か」から「市場」を通して「代価」を得ることができるでしょう。

中学生がいくらスポーツ大会で会場を沸かせても、「スポーツの試合を見せて代価を取る」というシステム上でそれを行わなかったら、すなわち自分たちの振る舞いを「市場化」できないなら、「疲れること」をどれほど行おうと「代価」は得られません。

同じように主婦の家事労働も「市場化」されていない場所で行われている限り、自分の息子や娘が部活で夕方遅くまで一生懸命になって毎日くたくたになって帰ってきても「1銭にもならない」のと同様に1銭にもなりません。それなのに、「そのような場所----市場化されていない場所----における振る舞いに対する代価はそもそも計算できない」ということが分からない人々でこの世界は埋め尽くされているのです。21世紀の今日になってもです。

多くの人が「お金とは何か」ということに関して明確な概念を持っていないからです。学校でも教わることはありませんし、もちろん義務教育の教科書にも書いてはありません。これは本当は恐ろしいことではないでしょうか。「歴史教科書の改悪問題」は文書的に追っていけますが、このことに関しては「問題の存在自体」が「意識化」されたことがありません。だから「この問題」に関しては、自ら知識人だとか、保守の思想家だとか教育を再生させようだとか軍事評論家だとか言ってうぬぼれている人も、実は「子供並み」の「社会感覚」しか持っていません。にも関わらず、彼らは「自分の社会感覚は子供並みだ」という自覚なしに生きています。恐ろしいことではないでしょうか。それで皆、今回は、すわ二大政党制だとかなんだとか言って、騒ぎあっています。

日本の官僚自体がそのことをまったく理解していないと思われる「事件」がかつてありましたが、それは大部分の日本人にとって「官僚の錯乱事件」であるとは認められませんでした。マスコミも殊勝な顔つきで官僚のリポートをただ黙って紙面に載せただけでした。これは日本政府が錯乱したのではないかと思われる事例です。

かつて政府は「家庭内での主婦の労働賃金」を計算して発表したことがありましたが、私はその記事を新聞で読んだとき、政府機関は錯乱したのかと驚愕いたしました。

主婦がお隣どうして「奥さん業」というサービスを提供する会社を興し、つまり他人同士で「奥さんを交換しあって」それぞれいままで自宅で行っていたのと同じ行為を「他人の家」で「仕事」としておこなえば「そのサービス」を必要としている「相手の家族」から「対価」を受け取ることがで きるでしょう。けれども、政府は「計算できるはずのないお金」を算出し、発表したのです。それは彼らが「価値の創造行為なしに代価を得ている」という「特例的な位置」にいる「公務員」だからかもしれません。彼らは「労働に対して対価を得ている」とは思うでしょうが、価値を生んでいるわけではない、すなわち「富を増やしているわけではない」ということが自覚できないままで生きているのです。

なぜこんなことが起こっているのでしょうか。あきらかに人々の(注1)労働と対価に関する観念が混乱しており、人々はただなんとなく「どこかで何時間かあれこれ動きまわると金がもらえる」と思い込んでいるからでしょう。しかし「事実はそうではない」のです。しかし、そういう根本的なことが分かってないという自覚がないにも関わらず、こういう人々が新聞を読んで世間話のついでに世界の経済問題をも論じているのです。彼らはものすごく難しい話をしています。

世界経済問題はもちろん「問題」でしょう。しかし「世界規模の問題」を論じる人たちが、もそもそも「お金に対する誤った前提と先入観」に染まったままだという「自覚」がないということは「いまだ隠れたままになっている恐ろしい大問題(精神問題)」なのではないでしょうか。

(注1)ルドルフ・シュタイナー「労働が直接対価を生むのではない」「労働を何かと交換することはできない」参照

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最近(2009年7月)になって----これは大変に下世話な話題ですが----またまた「分かっていない主婦」のおろかな振る舞いについてネット記事が出ていたのにびっくりしたので、こうして昔BBSに載せたことのある記事を一部書き直して再掲することにいたしました。以下の記事参照

私の地元にはN高等学校という県立の進学校があるが、この高校は昔から「センター試験を受ける必要のない生徒たち(私立専願者や就職希望者)」にも「強制的」にセンター試験を受けさせている。「なぜそんな無意味なことを先生たちは君たちに強制するのか?」とたずねても、生徒(彼女)自身にもよく分からないらしい。

「こういう不景気のおり、親だって<無意味な出費>はしたくないだろうに、君たちの親はなぜ学校に文句を言わないの?」

こう突っ込みを入れたら、

「そうしないと学校の先生が内申書を書いてくれないから」

と、「頭のいい子供たちが集まっているハズの学校」の生徒が答えた。

のちにテレビニュースで「センター試験の受験者数」が前年度と比較されながら発表されていたが、私はそれを見ながら「実数(真の希望者数)は違うだろ」とつぶやいた。学力学力と騒ぐ人々が多いが、「身近な不正」さえ正せない「社会主義的世界」で育てられている子供たちが、「新しい世界を<力技>で創造できる」だろうか。

こういうまやかしをやっている「地方の県立進学校」はなにもN高等学校だけではあるまい。教師は「誰かが決めた学校の方針」に従うだけで、争い事をみずから起こす気もないらしい。組合に入っている教師たちは「生徒と親たち」の利益----というより理屈に合わない出費の停止----のためには戦わない。

「学力システム」とは違う世界で生きなければならないスポーツの世界では、「若い人々」が「独自の教育(訓練)システム」によって「世界という舞台」に登場してくるようになったが、この現象には「育てる」という行為に関して、ひとつの暗示があるのではないだろうか。

日本のなかで「もっとも社会主義国家的形式規範主義で運営されている世界」こそ「知育界」なのだった。こういう「社会主義的振る舞いと思考態度」のなかで育てられた人々が官僚になって、日本の教育制度を立案している。そうして有識者と呼ばれる人々は「そのような社会主義的システムの中における学力向上問題」に強迫神経症的にかかわり続けている。彼らは「自分を含め利口だと思っている人々」こそが「病気」なのだと認識することができない。

彼らはいはば、ジェット戦闘機に使う「真空管システム」をもっとよりよく改良すべきだと叫ぶソ連の技術者たちのようである(これはたとえ話である。アナログプレイヤー技術とCDプレイヤー技術の比較話で語っても同じである)。「真空管システム」は前時代の思考方法によって生み出された技術であるということに気がつかないうちに、対抗国家は全トランジスタ式のジェット戦闘機を飛ばしていた。

「真空管システムを温存した教育システム」で、「知力を自由に解放できる能力」を「育てられる」だろうか。「知力を現実に適応させる力」は「知力」だけでは発動しない。たとえば、パソコンのソフトを駆動させるには「電力」がいる。ある時期に、ある新しい目的を独自に発見し、その解決のためにパソコンに電力を入れ、対応するソフトを見つけ、無ければ開発し、それをふさわしい時期に駆動させうる「自我をもった存在」が必要である。これは「日本の子供の学力問題」ではなく、「彼らを指導したがる有識者と呼ばれる人々」が「もっと大きなフレームワークがあるということが認識できるかどうか」の問題なのだ。

「日本の教育システム」という「社会主義的振る舞いと思考態度の園」からの脱出、これがなければ「日本の経済」も本当にダメになってしまうだろう。

参考文献
国家が教育を管理すること(ルドルフ・シュタイナー)
「資本主義」という言葉を、「罵倒の対象となる言葉だ」と思い込み、その19世紀以来の学問的迷信を無意識のうちにもあとなぞりし、いまだに「善なる精神、善なる態度とはこういうものだ」と機械的な発言(反射行動)を繰り返している人々がいる。

彼らは「実際には、はなはだ信用ならない19世紀以来の西欧知識人出自の刷り込みを受けている」とは、つゆほども思わず、あの大戦争の後、今日に至る過程において、これほど世界の経済状況が変貌してしまった後になっても、いまだにまったく、「そう(世界経済は変容した)なのだ」と気がつかず、相変わらず半世紀前の西欧知識人たちのうぬぼれ(経済に関わる教科書的反応)を受け継いだまま、それが「知的な人物たる者の旬の感じ方」であるとの勝手な思い込みからのためか、とうの昔にすぎた〈旬な振る舞い〉をいまだに、それで通用すると思い込んで何か経済関連の事案が思い浮かぶたびに「既視感を感じさせる、通り一片で気楽な批判」活動にいそしんでいる。彼らはそういう、「不誠実者たち」、「大変な知的不道徳漢たち」である。

彼らが「資本主義」の対案としてマルクス・エンゲルスは「社会主義・共産主義」を提示したと、いまだに思い込んでいるから、彼らは呪縛を自らの力で解くことができないのである。

資本主義の対義語は社会主義・共産主義ではないということが、どうして偏差値の高い大学に入学できたとうぬぼれている人々----さらに言えば大学で日本の青年たちを指導している「経済学の教授たち」から出てくることがないのだろうか。

資本主義をその字義通りに解釈すれば、資本主義とは「資本を元手に行う経済活動」にすぎない。だが、日本においては中学の歴史や公民の教科書を見ればわかる通り「利潤を目的に活動するのが資本主義だ」と書いてある。その直後には「私企業は利潤を追求し、公企業は利潤を追求しない」などと、中学生の道徳意識を誤解させるような記述まで平気で教科書作成者たちは書いている。

公企業を倒れずに維持させているのは、「私企業で働く人々が差し出す利潤なのだ」とは、思いもよらないような奇妙な記述である。電気、ガス、輸送機関、多少とも公的性格をもった企業は利潤の獲得に悩まないでいられるのだろうか。現在日本においては「かつての公企業」が「私企業」に順次転換中であるが、それらの企業体がかつて「教科書上の分類」では公企業であった時期においても、彼らが利潤を出すような経済活動をすることは自明の行為であったはずなのだ。やればやるほど膨大な赤字を出す公企業とは何だろうか。国民はそのような「金銭欲のない、利潤獲得に淡白な、欲望にまみれていない企業の存在」をありがたがるだろうか。

中学の公民の教科書に何と書いてあれ、公企業であろうとも、利潤を出せないような企業は、つぶれるしかないということが、中学の公民の教科書執筆者たちには、いままでよく理解されてこなかったようなのだ。このような学者たちから「非現実的で空想的な経済社会」を学ばなければならない、現代日本の中学生は哀れである。

「資本を元手に生産活動を行う」のが資本主義なら、社会主義・共産主義は何を元手に生産活動を行ってきたのか。彼らも「資本」を用いたのではなかったのか。

社会主義系の学者は、当時の「労働者を搾取していた民間主義」を資本主義と呼び、同じように「資本のお世話」になっておきながら、国家(官僚という黒子たち)が管理する経済体制----すなわち「国民全体から搾取し、国民の精神生活に介入と強制と抑圧を繰り返してきた国家主義」----は「資本主義」とは呼ばなかっただけのことなのだ。この「習慣として流通している〈漠然とした資本主義の定義付け〉」は、実はまったく「学問的なもの」ではないのである。

事実は、「資本を元手に生産活動を行う資本主義」というものがあり、その下位概念として、「そのとき誰が資本を管理するのか」という区分によって、いわゆる現在流通しているところの「資本主義」と「社会主義・共産主義」に分かれるにすぎない。

19世紀から20世紀にかけて生じたのは、「資本の管理人を誰にするのか」に関して行われた、東西勢力のつばぜり合いだった。

私の修正案はこうである。

まず近代を特徴づける「資本主義という生産方式」が存在する。

その下位区分として、「資本の管理を民間の自由にまかせる資本主義」を「自由主義」「民間主義」と呼ぶ。そして「資本の管理を国家にまかせる資本主義」を「社会主義・共産主義」「国家主義」と呼ぶのである。

時代の進展とともに新しい問題や課題が「資本主義」=「自由主義」=「民間主義」に出現するだろうことは予想できることである。だが、その「新しい事態」を、19世紀以来の不誠実な西欧のインテリたちの「定型句」でおざなりのような批判ばかりを繰り返して、本当に実効性のある批評ができるだろうか。

「資本主義とは何か」ということについても、現在のような奇妙な道徳感覚にまみれたおかしな通俗定義を土台として議論をするのではなく、「正しい観察スタンス」が必要である。だが、これは教科書秀才的なスタンスで、このような「現実的問題」に接する限り無理な話である。「労働者たちが幸福になるためには教科書に書いてある通りにすればよい」、と思い込んで世界を崩壊させかけた社会主義インテリたちの愚かさを経験したあとでさえ、人々はなおも自分の精神に巣くっているものに自覚がなく、 その精神が、まるで乳酸が蓄積して硬直している筋肉のようになっているということに気がつかない。「硬直した筋肉」は触れると痛みを発するが、「硬直した精神」は痛みを発してみずからに警告することがない。そのようにして人々は、1世紀、またもう1世紀とみずからを欺いてきた。

「勉強の仕方を間違えると愚鈍になる」と書いた人が西欧にいたが、確かにこの数世紀、近代人は勉強の仕方を間違えたばかりに、愚鈍化したのだった。

日本の教育世界もまた西洋と同じ愚鈍化の道を辿って----しかも「その教育実践と評価システムにおける形式主義」は「現実の西洋社会のそれ」をゆうに凌いでしまい「滑稽の域」にまで達している(韓国の「それ」はさらに異様だが、もちろん「日本の病」と同系統の病気である。)----今日にいたっているのだろう。日本人が正しい道----教育思想の再構築とその具体的実践方法の再構築の道----にみずからの判断によって軌道修正するのは、いったいいつの時代になるだろうか。あるいは100年待っても、それはやって来ないかもしれないが、そうなるとひどい世の中になっていることだろう。しかしまあ、その時は、私は墓の中から、それを嘆くことしかもはやできないのだろうが。
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