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1960年生まれ。宮崎県延岡市在住。
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近代の歴史問題は〈素人〉にも扱いやすい。近代人は「勉強馬鹿の時代」の申し子である。なぜなら、近代----前時代に代わって学者が人々の精神的権威となって「人々の精神生活の管理を行うようになった時代」----つまり「勉強馬鹿の時代」には、人々のために参照に供されるための「たくさんの本」が世界のいたるところにうず高く積まれているからだ。

彼らは「それを読む」。そして「〈そこ〉から感情を育てる」。だが果たしてそれは「現実的な感情」なのだろうか。

「歴史を政治ショー化」している人々----特に極東の勉強馬鹿たちのことだが----彼らが追いかけるのは「近代のほんの短い時期」における「歴史の事実」である。それはなぜなのだろうか。では現代人が「そうである」として受け入れている過去2000年における歴史の記述は「事実」なのだろうか。われわれは「正しい〈解釈〉」が本当にできているのだろうか。

古代人は「参照すべき書物」をほとんど残さなかった。「紙上の報告が人々をこれほどにも縛りつけるようになった時代」は「近代以外」にはほかにない。人々は、近代以前の「歴史の事実」というものを本当に押さえているだろうか。

古代に「あの事件」「あの戦争」があったので、その後の「展開、変容」が生じたのではなかったのか。そのとき個々の民族集団は「誤った選択」をしなかったのだろうか。ならば、なぜ人々は「その時代以前」にまで戻って、いま学者や政治集団がおこなうように、「時代精神をその時代に引き戻そう」とはしないのか。だが実際のところ、現代の特定政治集団は「そんな遠いことには関心がない」。

われわれは忘れている、「いま世界に住んでいる国民の先祖はどんな民族であれ、皆違う場所から移動してきて、先住民の土地を奪って暮らしているのである」。

現代人が道徳的に攻撃しているのは、その膨大な民族興亡史のなかのごく新しい時代の一部に過ぎない。なぜ人々は----とはいえこれは特に極東の黄色人種系国家内(もちろん日本も含む)に住む「近代人」に特徴的な反応形式(オリエンタル・モード)なのだということもここで強調しておく---「好ん」で「そんなことばかり」したがるのだろうか。そこには近代人特有の「無意識の意図」が含まれてはいないだろうか。そのような「道徳めかした糾弾」を好んで行いたがる人自身にさえ気がつかれていない「極東系近代人特有の感情的傾斜」が、彼らの感情を操っている。罵倒しているとき、彼らは最高に気分がいいはずだ。小中学生、高校生が嫌いな同級生の携帯電話に「馬鹿、死ね」とメールすると最高に気分がいいように。

しかし、勉強馬鹿、道徳馬鹿になった人々は互いに(リンク先は具体例、もちろん日本人にも同系の人はいる。彼女は学校では「成績のいい生徒」だったのだろう。そして当時「教師たち、その他」から流し込まれ、「学習して得た感情」を、今度は自分が担当する生徒たちに「そのまんま流し込む」ために教師になる。)----それは、「オリエンタル様式による近代教育(学内学外を問わず)」の「結果」でもある----、自分たちの先祖の振る舞いを棚にあげて、他人の先祖の振る舞いを道徳的に攻撃する快感に酔いしれ続けて終わりがない。「勉強馬鹿の時代」がもうしばらく続くゆえんである。

近代の大戦争が終わった。そのことによって、もはや今後は戦争によって、あるいは暴力によって、他人の土地を奪うことは容認しない時代が始まったのである。誰がそう決めたのか。現代から見れば「罪人のように見える略奪者たちの子孫たち」がである。かつての敵も味方も含めて「罪人の子孫たち」はそう考えるようになった時代がいまようやく始まったばかりである。

それなのに、いまだに世界は前時代の帝国主義感覚で営まれていると思いたがる人々がいて、まさに、「この手の人々」が----彼らは愛国などと唱えているが----「現実を正しく観察することを一般の人々の手から隠す手助け」を、左翼側の思想集団とともに----なぜなら〈左右ともに〉彼らがよってたっているところの世界感覚は、マルクス由来の帝国主義論から受け継がれてきた世界感覚なのだから----行っているのである。しかし彼らには一向にそんな「自分の脳髄に巣くっている〈自動思考〉の〈由来の自覚〉」なんぞ起きる気配もない。

多くの「民族の精神的エポックとなった事件」が過去にたくさんあったはずだが、いまや誰もそれを「認識」したいとは思わない。そのような時代は「資料」が少なすぎて 「勉強馬鹿の手」にはおえないからである。それならば彼らはいったい何のために歴史を利用して政治的発言をしているのか。

「自覚なき精神生活」、まさに「この時代」が「学問的体裁という新たな権威に抑圧された勉強馬鹿の時代」であることが、人々に「見た通りに解釈できない不自由」をもたらしているのではなかろうか。いずれにしろ「そこ」から「自由」にならない限り、「時代精神」を「あらたな場所」にもたらすことはできない。

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最近、池田信夫さんのブログを見つけて、「宗教」という言葉の使い方に「思わず反応」してしまい----これは私の修行不足のせいですが----以下のようなコメントを投稿しました。

宗教の定義を----実を言うと、この「現象」は特に日本においてはなはだしいのですが----間違って使い出したのが、「近代」です。「彼岸を敬う思想」ではない「思想・観念」を「むやみに無批判に信じこむこと」は、正確に言うと「宗教行為」ではありません。しかし「唯物論者」には「彼岸は存在しない」ので、「存在しない対象」を「敬うやつら」は、皆馬鹿者にすぎません。そして、「彼岸世界」を切除した「宗教定義」の「転用」が----おもに罵倒用語として----「唯物論者」の側から行われるようになって、地球史的にはおよそ2世紀ほど経過しているところです。

「近代人」が(特に「近代の知的日本人が」と補足しておきましょう)、宗教の「性格あるいは一側面」を「歴史的にふり返ってみたとき」----そのふり返り方というのは「みかんの皮をむいて、その皮の様子でみかん全体を認識する」ような態度でもあります----「科学主義という〈宗教〉」によって----近代人が無意識にその前提としている宗教定義によれば、こういう「自家中毒的表現」が許されることになります----眺めたときに「不合理なものを信じ込んでいる」という側面のみがフレームアップされるようになりました。それは「科学主義」という「宗教」を信じ込んでいる人びとによって「再定義」されるようになった「近代人」にとっての「宗教観」です。

私は「何かをむやみに信じ込むこと=宗教」という定義(というより語義ですね)を使う人の宗教理解というのは、実は大変に浅いものだと思っています。

近代思考に毒されていない「健全な言語感覚」の持ち主なら、「~は宗教だ」というとき、これは「君は花だ」と同じような、ただの隠喩、すなわち「詩的表現にすぎない」という自覚があるはずです。ですが、そういう自覚もなく、「途中で詩人になってしまっている自分を自覚できず、自分は論理的に書いている」と思い込んでいる学者や学者モドキが、ここニッポンでザクザク、土の中から出てくるようになりました。しかし彼らがいかに「西洋の思想」を援用して議論しているように装っても「それこそまさに日本的現象なのだ」ということが分からないのです。

それは、公園の犬を指さして猫だと攻撃する態度とそれは同じなのですが、彼らには「本当に基本的で簡単なこと」は分かりません。彼らには「難しいことしか分からない」のです。



と、まあ、ここまで、言い回しに「私の人間的修行不足さ」が出てますが(いつもあとで反省するんですが)、治りません)。

こういう反論というのは昔、「共産主義は宗教だ」と言った方に対しても行ったことがあるんですが、「宗教」という言葉を用いたこういう「近代的言い回し」は、現代日本人の間であまりにも「当たり前」になってしまっているので、私にとっては、終わりのこないモグラたたきのゲームをやっているようです。

池田信夫さんのブログ自体は大変おもしろいので、見つけたその日に、掲示されてあった著書の写真をクリックしてアマゾンに飛び、『電波利権』と『ネットがテレビを飲み込む日』を注文し、昨日前者の方を読了したところです。非常におもしろい本でした(皆さんもどうぞ)。

こういう機会なので、昔、ネット上に載せ、現在消えてしまっている過去の投稿を再掲示しておこうと思います。以下のエピソードです。


以下は、大学受験生向けに作られた問題集に採られていた文章のひとつです。現代日本の高校生はこのような「宗教についての日本人学者の考察」を読まされ、なおかつ「試験」されているわけです。

では、みなさん、じっくり読んでみてください。唯物論の時代に日本の学者が宗教を考察するといかなるものになるのか、その典型を読み取ってくださると幸いです。

あるものがあるものより勝るという人間の持つ論理の進展によって、人間は、多神から主神へ、主神から唯一神へと概念を発展させていったが、その唯一神が、万物を動かし、したがって万物を超越するものであるという認識が高まるにつれ、その万物のうちの一つである人間が、その超越者を直接には理解し得るものではないという理論がさらに働くことになる。

したがって、人間が超越者の少なくとも一部を理解し得るのは、超越者が人間の形をとって、現れ、それによって、人間が、人間なりに超越者の(意思の)一部を理解し得るということになる。超越者が人間に肉の形をとること、すなわち受肉(インカーネーション)ということが人間にとってもっとも重要なことになる。イスラエルではナザレの寒村に生まれた大工、イエスがその人であり、またインドでは、ネパール近くに生まれたブッダがその人であると理解された。こうして、キリスト教と仏教という極めて論理的な二つの宗教が生まれ、そしてその理論性のゆえに、世界の多くの部分に拡大していくことになる。人間はかならずしも論理的な存在ではないから、それ以前の論理段階にある諸宗教も依然として存在している。仏教とほぼ平行して形成されたヒンズー教は、超越者が、ひとりゴータマにおいて受肉したのではなく、目にみえる様々なものへ顕現していると考えるもので、一見、多神教的であるが、基本的には一神教と考える考えるべきものである。その限りにおいて、十分論理的である。(中略)キリスト教と仏教はこのように極めて類似した性格の宗教であるが、一方、はなはだ大きい相違もある。それは超越者と世界との関係に関するもので、本書の主題である、砂漠と森林、西と東の違いが、まさにそこに発している。イスラエルにおいては、神は、嵐の神を通して理解されたものであり、それは、砂漠のなかでは芥子粒にしか見えない人間の知力を隔絶した動きをもつものであって、そういう微々たる人間が存在するのは、神によって存在せしめられたもの、すなわち、神によって創造せられたものものであるという考えが成立し、それが万物に及んで、天地創造の時に、つくられ、終末の時に終わると考える。天地創造と終末という概念は、日本人にははなはだ理解しにくいが、キリスト教の世界では日常のことであり、ヨーロッパでは、近代地質学が誕生するまで、その天地創造は、紀元前五四九二年であったという計算までなされており、そもそもその近代地質学が発展したのは、天地創造の時から現在に至るまでの歴史のなかに示された神の摂理をよりよく知ろうという動機によって発展したものである。これに対し、仏教では、超越者あるいは究極者というものの理解が根本的に違っていた。(鈴木秀男『森林の思考・砂漠の思考』)


筆者の考えによれば「宗教は人間の頭から考え出されたもの」なのです。だから筆者は「神々は人間が作り出したものだ」と思っています。けれども一方で現代人は「古代の人々は迷信深かった」、「現代人よりずっと愚かだった」と思っています。典型的な唯物論的考察態度ですけれども、しかし「このような考え方」というのはその他の現代日本人にとって別段奇異な見方ではありません。そしてこのような文章問題を読まされる現代日本の高校生たちも、別段この文章を奇異な文章だとは感じないでしょう。それどころか、容易に文章を読みこなせるようなタイプの利口な子はむしろ「文章の内容」に感心さえするかもしれません。現代日本にはこのような文章に違和感を感じることなく文章を読み、「完璧な答案を書ける高校生」が数多く存在するのです。その高校生はみごとに大学に合格するでしょう。けれども、この生徒は、無意識に選択された、この学者の書いた文章に出てきたのと「同じ前提」をその後も鵜呑みにし続けるかもしれません。あるいは、大学に入ったのち、さらにほかの学者から、さらにタチの悪い唯物論的宗教論や政治論を読まされるかもしれません。さしあたって彼がそのような精神生活を送ったとしても、これといって彼の実人生に不都合は生じないかもしれません。けれども、そのような日本人が今、世界の宗教問題と政治問題を前にしたとき、その「意識されなかった前提による考察」が復活するのです。現代は右翼でさえ実は唯物論者です。「宗教」というテーマで彼らは何の話をしているのでしょうか。実際に彼らが行っているのは「宗教」の話ではないのです。だから「その中」に「実」はないのです。では彼らは何を言っているのでしょうか。「〈虚〉を信じ込んでいる〈彼ら〉の文化を守れ」と言っているのです。彼らは宗教生活における「儀礼的態度」は遠巻きに見守りますが、実際には「唯物論者として」生きています。そして「それこそが正しい態度だ」と意識的にも無意識的にも思い込んでいます。

そして古代から日本人の精神を陶冶してきた仏教という宗教の伝統をふり返り、われわれの先祖が----当時片田舎にいた貧しい農民たち、そのような人々に連なる私たちの曾祖父母にいたる先祖たちまでもが----いかに「彼岸の思想」に真剣に向き合ってきたかという事実を意識化するなどというような振る舞いは眼中にはありません。この1世紀の近代思想の衝撃が日本人の感情生活すべてを覆してしまいました。そういうわけで現代日本人の多くは「宗教」と聞くと----若い人ほど----「カルト」のことを連想するようになりました。彼らにとって宗教=カルトなのです。そして一方では、宗教法人認定の法律上の定義を読み上げて「こういう条件を網羅しているものが宗教です」などと得意気に語る人もいます。


さらに、もうひとつ、今、日本の子供たちが「公教育」によって「どんな思考態度」を流し込まれているのか、その例をご紹介しましょう。

知り合いの地元の高校一年生がこんな話をしてくれました。

最近、倫理社会の授業で、30代前後の担当の先生が生徒たちにこんな質問をした。

「きみたちのなかで、自分は何の宗教にも入っていないと思う人は手を挙げてくれ」

少年は自分は別に何の宗教も入っていないので、手を挙げたのですが、先生はすぐにそれを受けて、

「今手を挙げた、自分は何の宗教にも入っていないと思っている人たちの思い込みも、実は宗教です。きみたちは自分は何も信仰していないという宗教に入っているのです」

と言ったそうなのです。

その話をしてくれた少年は今でも納得がいかない様子で、憤慨しながら「先生はおかしい」と言いました。

その若い高校教師の「倫理社会」の指導法を聞いて、私は「近代人の内面」の一種の典型を見たような気がしたので、この話にはいたく興味がわきました。

一番簡単に理解できるのは、少年と教師の「宗教」という言葉に込めた意味はまったく異なっているということです。ですが、その教師はそれを説明せず、一種の詐術を使って高校生たちを騙したのでした。

はたしてどちらがより深く「近代病」に罹っているのでしょうか。それは「子供」に「倫理」を教えているその若い教師の方なのです。フランス発のポストモダニズム、すなわち価値相対主義という思想風潮がハレー彗星の到来とともに世界中にまき散らされたことがありました。しかし、この思想自体はまったく新しいものではないのです。なぜなら、マルクス主義というプレ・ポストモダニズムがずっと以前に人間の精神生活に衝動を与えていたからです。「すべての精神生活はイデオロギーにすぎない」「それは経済活動の上に咲いた幻影、徒花である」「経済の管理こそが真実である」こういいながら、マルクス主義は世界中の貧しい人々を「さらなる不幸に陥れる準備」をしながら、「貧しい人々の精神」から「彼岸を敬いたい」という「先祖から受け継がれてきた感情」までも奪いさったのでした。

「共産主義は宗教である」という言い方は、まったくマルクス流の論理の上に立った言い方なのです。マルクス流の思考方法になぞらえて考えれば、そういう「自家中毒的表現」に到達せざるを得ません。だからこそ今この時代に「共産主義は宗教だ」というマルクス的言い回しが出てくるようになったのです。今多くの人々が、「そうなのだ」という自覚もなく、マルクス流の思考態度でマルクスの思想を攻撃しています。

この記事を読みながら、「抹茶はいったい何の話をしているのだ?」、「宗教については、むしろその教師の言うとおりじゃないか」、「そもそも抹茶はなんの話をしたいのか分からない」というふうに感じられる方もいらっしゃることと思います。

なぜアジアは一方でこれほど激烈に西洋産無神論たる「共産主義思想」に精神をがんじがらめにされてしまったのでしょうか。それは実はアジア人の自我がすでに変化をしており、たとえ外面上は昔ながらのアジア的信仰生活を営んでいるように見えても、その「内実」は前時代とはまったく別のものになっていたからです。アジア人の宗教生活の内面が空洞化していなかったら、アジア人の精神が近代的思考方法を理解できないほどに前時代的精神に取り巻かれていたなら、アジアは決して共産主義思想におかされることはなかったでしょう。この「伝染病」のような病は「新しい自我」を獲得していく過程で人類が一度は「罹患」しなければならない「克服すべき病」でした。

21世紀以降、人類は「そのような相対主義的思考方法」に再び「懐疑の目」を向ける必要がある、これがずっと抹茶が当HPで追いかけているテーマでもあります。

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