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操練会議

このblogは、HP「物部守屋の末裔 勝海舟の研究」の付設ページとして設けられました。
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勉強は仕事ではない

昔(2002/11/30)朝日新聞の第一面「学ぶ意欲 転機の教育」欄に興味深い引用が載っていました。
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「おれ、勉強から降りたんです」
東京都内のフリーターの男性は言い切る。小学校時代から、勉強が必要だと思ったことはない。

「子供は勉強が仕事」

と言う先生に、

「金ももらえず、何もいいことが見えない」

と反発を覚えた。
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私が興味を引かれたのは、今回の記事のテーマ「勉強の意義、示す工夫を」についてではありません。先生が「子供は勉強が仕事」と言い、子供は「仕事なら、じゃあなんで金がもらえないんだ」と反発したという箇所なのです。おそらくこの先生の言い回しは多くの人が「子供時代」にどこかで聞かされた「説教」に違いありません。勉強したから「報酬」をくれとせがむ子どもも実際にいたでしょう。

けれども、そもそもこの「やりとりそのもの」が双方の大きな錯誤に基づいています。 そもそも先生は「仕事」という言葉を「賃金労働」という意味で使ったのでしょうか。単に「やるべきこと」というくらいの軽い意味だったのかもしれません。しかし、そういう意味で使っているオトナの側も「なぜ勉強するだけでは対価を得るにふさわしい価値」を「二人の関係性の中で生じさせる」ことができないかを明確に意識しているわけでもないようです。もし先生が県の公務員なら、彼は「市場」から金銭を直接得ているわけではありません。誰かが「市場」通じて「生じさせた価値」を「分けてもらっている」だけです。すなわち公務員は「価値の創造行為には直接には従事できない場所」で生きています。もし先生の側が「ちゃんと分かっている」なら、「子供は勉強が仕事」などというような誤解を生みやすい----すなわち子供の屁理屈を呼び覚ますような----説教は「意識的」に避けることができたでしょう。もちろん子供の勉強は仕事(賃金労働)ではありません。

子供が勉強する行為が「市場」において誰かに対するサービス行為として売りにだされる可能性があるなら、その子供は「勉強をしてみせるという行為」によって「それを必要としている誰か」から「市場」を通して「代価」を得ることができるでしょう。

中学生がいくらスポーツ大会で会場を沸かせても、「スポーツの試合を見せて代価を取る」というシステム上でそれを行わなかったら、すなわち自分たちの振る舞いを「市場化」できないなら、「疲れること」をどれほど行おうと「代価」は得られません。

同じように主婦の家事労働も「市場化」されていない場所で行われている限り、自分の息子や娘が部活で夕方遅くまで一生懸命になって毎日くたくたになって帰ってきても「1銭にもならない」のと同様に1銭にもなりません。それなのに、「そのような場所----市場化されていない場所----における振る舞いに対する代価はそもそも計算できない」ということが分からない人々でこの世界は埋め尽くされているのです。21世紀の今日になってもです。

多くの人が「お金とは何か」ということに関して明確な概念を持っていないからです。学校でも教わることはありませんし、もちろん義務教育の教科書にも書いてはありません。これは本当は恐ろしいことではないでしょうか。「歴史教科書の改悪問題」は文書的に追っていけますが、このことに関しては「問題の存在自体」が「意識化」されたことがありません。だから「この問題」に関しては、自ら知識人だとか、保守の思想家だとか教育を再生させようだとか軍事評論家だとか言ってうぬぼれている人も、実は「子供並み」の「社会感覚」しか持っていません。にも関わらず、彼らは「自分の社会感覚は子供並みだ」という自覚なしに生きています。恐ろしいことではないでしょうか。それで皆、今回は、すわ二大政党制だとかなんだとか言って、騒ぎあっています。

日本の官僚自体がそのことをまったく理解していないと思われる「事件」がかつてありましたが、それは大部分の日本人にとって「官僚の錯乱事件」であるとは認められませんでした。マスコミも殊勝な顔つきで官僚のリポートをただ黙って紙面に載せただけでした。これは日本政府が錯乱したのではないかと思われる事例です。

かつて政府は「家庭内での主婦の労働賃金」を計算して発表したことがありましたが、私はその記事を新聞で読んだとき、政府機関は錯乱したのかと驚愕いたしました。

主婦がお隣どうして「奥さん業」というサービスを提供する会社を興し、つまり他人同士で「奥さんを交換しあって」それぞれいままで自宅で行っていたのと同じ行為を「他人の家」で「仕事」としておこなえば「そのサービス」を必要としている「相手の家族」から「対価」を受け取ることがで きるでしょう。けれども、政府は「計算できるはずのないお金」を算出し、発表したのです。それは彼らが「価値の創造行為なしに代価を得ている」という「特例的な位置」にいる「公務員」だからかもしれません。彼らは「労働に対して対価を得ている」とは思うでしょうが、価値を生んでいるわけではない、すなわち「富を増やしているわけではない」ということが自覚できないままで生きているのです。

なぜこんなことが起こっているのでしょうか。あきらかに人々の(注1)労働と対価に関する観念が混乱しており、人々はただなんとなく「どこかで何時間かあれこれ動きまわると金がもらえる」と思い込んでいるからでしょう。しかし「事実はそうではない」のです。しかし、そういう根本的なことが分かってないという自覚がないにも関わらず、こういう人々が新聞を読んで世間話のついでに世界の経済問題をも論じているのです。彼らはものすごく難しい話をしています。

世界経済問題はもちろん「問題」でしょう。しかし「世界規模の問題」を論じる人たちが、もそもそも「お金に対する誤った前提と先入観」に染まったままだという「自覚」がないということは「いまだ隠れたままになっている恐ろしい大問題(精神問題)」なのではないでしょうか。

(注1)ルドルフ・シュタイナー「労働が直接対価を生むのではない」「労働を何かと交換することはできない」参照

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最近(2009年7月)になって----これは大変に下世話な話題ですが----またまた「分かっていない主婦」のおろかな振る舞いについてネット記事が出ていたのにびっくりしたので、こうして昔BBSに載せたことのある記事を一部書き直して再掲することにいたしました。以下の記事参照

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資本主義の対義語は社会(共産)主義ではない

「資本主義」という言葉を、「罵倒の対象となる言葉だ」と思い込み、その19世紀以来の学問的迷信を無意識のうちにもあとなぞりし、いまだに「善なる精神、善なる態度とはこういうものだ」と機械的な発言(反射行動)を繰り返している人々がいる。

彼らは「実際には、はなはだ信用ならない19世紀以来の西欧知識人出自の刷り込みを受けている」とは、つゆほども思わず、あの大戦争の後、今日に至る過程において、これほど世界の経済状況が変貌してしまった後になっても、いまだにまったく、「そう(世界経済は変容した)なのだ」と気がつかず、相変わらず半世紀前の西欧知識人たちのうぬぼれ(経済に関わる教科書的反応)を受け継いだまま、それが「知的な人物たる者の旬の感じ方」であるとの勝手な思い込みからのためか、とうの昔にすぎた〈旬な振る舞い〉をいまだに、それで通用すると思い込んで何か経済関連の事案が思い浮かぶたびに「既視感を感じさせる、通り一片で気楽な批判」活動にいそしんでいる。彼らはそういう、「不誠実者たち」、「大変な知的不道徳漢たち」である。

彼らが「資本主義」の対案としてマルクス・エンゲルスは「社会主義・共産主義」を提示したと、いまだに思い込んでいるから、彼らは呪縛を自らの力で解くことができないのである。

資本主義の対義語は社会主義・共産主義ではないということが、どうして偏差値の高い大学に入学できたとうぬぼれている人々----さらに言えば大学で日本の青年たちを指導している「経済学の教授たち」から出てくることがないのだろうか。

資本主義をその字義通りに解釈すれば、資本主義とは「資本を元手に行う経済活動」にすぎない。だが、日本においては中学の歴史や公民の教科書を見ればわかる通り「利潤を目的に活動するのが資本主義だ」と書いてある。その直後には「私企業は利潤を追求し、公企業は利潤を追求しない」などと、中学生の道徳意識を誤解させるような記述まで平気で教科書作成者たちは書いている。

公企業を倒れずに維持させているのは、「私企業で働く人々が差し出す利潤なのだ」とは、思いもよらないような奇妙な記述である。電気、ガス、輸送機関、多少とも公的性格をもった企業は利潤の獲得に悩まないでいられるのだろうか。現在日本においては「かつての公企業」が「私企業」に順次転換中であるが、それらの企業体がかつて「教科書上の分類」では公企業であった時期においても、彼らが利潤を出すような経済活動をすることは自明の行為であったはずなのだ。やればやるほど膨大な赤字を出す公企業とは何だろうか。国民はそのような「金銭欲のない、利潤獲得に淡白な、欲望にまみれていない企業の存在」をありがたがるだろうか。

中学の公民の教科書に何と書いてあれ、公企業であろうとも、利潤を出せないような企業は、つぶれるしかないということが、中学の公民の教科書執筆者たちには、いままでよく理解されてこなかったようなのだ。このような学者たちから「非現実的で空想的な経済社会」を学ばなければならない、現代日本の中学生は哀れである。

「資本を元手に生産活動を行う」のが資本主義なら、社会主義・共産主義は何を元手に生産活動を行ってきたのか。彼らも「資本」を用いたのではなかったのか。

社会主義系の学者は、当時の「労働者を搾取していた民間主義」を資本主義と呼び、同じように「資本のお世話」になっておきながら、国家(官僚という黒子たち)が管理する経済体制----すなわち「国民全体から搾取し、国民の精神生活に介入と強制と抑圧を繰り返してきた国家主義」----は「資本主義」とは呼ばなかっただけのことなのだ。この「習慣として流通している〈漠然とした資本主義の定義付け〉」は、実はまったく「学問的なもの」ではないのである。

事実は、「資本を元手に生産活動を行う資本主義」というものがあり、その下位概念として、「そのとき誰が資本を管理するのか」という区分によって、いわゆる現在流通しているところの「資本主義」と「社会主義・共産主義」に分かれるにすぎない。

19世紀から20世紀にかけて生じたのは、「資本の管理人を誰にするのか」に関して行われた、東西勢力のつばぜり合いだった。

私の修正案はこうである。

まず近代を特徴づける「資本主義という生産方式」が存在する。

その下位区分として、「資本の管理を民間の自由にまかせる資本主義」を「自由主義」「民間主義」と呼ぶ。そして「資本の管理を国家にまかせる資本主義」を「社会主義・共産主義」「国家主義」と呼ぶのである。

時代の進展とともに新しい問題や課題が「資本主義」=「自由主義」=「民間主義」に出現するだろうことは予想できることである。だが、その「新しい事態」を、19世紀以来の不誠実な西欧のインテリたちの「定型句」でおざなりのような批判ばかりを繰り返して、本当に実効性のある批評ができるだろうか。

「資本主義とは何か」ということについても、現在のような奇妙な道徳感覚にまみれたおかしな通俗定義を土台として議論をするのではなく、「正しい観察スタンス」が必要である。だが、これは教科書秀才的なスタンスで、このような「現実的問題」に接する限り無理な話である。「労働者たちが幸福になるためには教科書に書いてある通りにすればよい」、と思い込んで世界を崩壊させかけた社会主義インテリたちの愚かさを経験したあとでさえ、人々はなおも自分の精神に巣くっているものに自覚がなく、 その精神が、まるで乳酸が蓄積して硬直している筋肉のようになっているということに気がつかない。「硬直した筋肉」は触れると痛みを発するが、「硬直した精神」は痛みを発してみずからに警告することがない。そのようにして人々は、1世紀、またもう1世紀とみずからを欺いてきた。

「勉強の仕方を間違えると愚鈍になる」と書いた人が西欧にいたが、確かにこの数世紀、近代人は勉強の仕方を間違えたばかりに、愚鈍化したのだった。

日本の教育世界もまた西洋と同じ愚鈍化の道を辿って----しかも「その教育実践と評価システムにおける形式主義」は「現実の西洋社会のそれ」をゆうに凌いでしまい「滑稽の域」にまで達している(韓国の「それ」はさらに異様だが、もちろん「日本の病」と同系統の病気である。)----今日にいたっているのだろう。日本人が正しい道----教育思想の再構築とその具体的実践方法の再構築の道----にみずからの判断によって軌道修正するのは、いったいいつの時代になるだろうか。あるいは100年待っても、それはやって来ないかもしれないが、そうなるとひどい世の中になっていることだろう。しかしまあ、その時は、私は墓の中から、それを嘆くことしかもはやできないのだろうが。

お金とは何か

もうずいぶん前のことだが、しかし、中年になってからのことだったことも確かだが、ある時ふと「お金って何?」ということに興味がわき、市内の大きな古書店に行き、経済関係の教科書はないかと物色していたら、たまたま大学の講義で使用されたらしいマルクス主義系の教科書があり、その扉のページに書いてあった著者の言葉にどぎもを抜かれたことがある。曰く、

「貨幣とは何か、いろいろ意見があって実はよく分からない」

マルクス主義系の講義を行っていた大学の教授が、そのように本論に入る前に軽いエッセイ風に教科書の扉のページに書いていたのだった。

私は中年以降になって、初めて「お金とは何か」について考えようと思った。たぶん「お金ならものごころのつく頃からずっと日々直接接して生きてきたし、だから、〈その使い方〉はよく分かっている」と勝手に思い込んで満足していたからだろう。だけれども、それは金銭と商品の交換ルールに慣れていただけの話である。現代の多くの人が私と似たような感覚ではないかと思う。

私は、義務教育期間においても、高校の政治経済の時間においても、一度も教師の口からお金とは何かについて習ったことはなかったし、教科書の中にも「お金とは何か」という基礎中の基礎について、記述してあったなどというような記憶はない。そしていまなお、小学中学高校の教科書には出て来ない記述である。

「お金を得たかったら、働け」裏返して「働けば、お金が手に入る」

多くの人がお金に関しては「この説明」で満足しているのではなかろうか。しかしまさにこのような発想こそがいまなお多くの人びとが無意識にもそうだと思っている「労働価値説」を下から支えているのだ。なかでも公務員(小学・中学・高校・大学の教師も含む)がいけない。

文部科学省の役人たちは、義務教育下の児童生徒たちに「お金とは何か」についてちゃんと教えるように、教科書作成会社に「指導」することもない。なぜなら、役人、公務員として働いている人たちこそが、もっとも「労働価値説」的な発想で生活しているからである。彼らは「働いたらお金がもらえる」と考えている。しかし正確には「一般の国民が価値の生産活動によって生じた価値(それは物質世界では貨幣という象徴によって可視化されている)を分けてくれている」だけなのだ。

公務員の活動は「市場価値」を生まないので、それを「直接、市場の経済活動上の交換ルール」によって交換しているわけではない。「価値は市場で出会うことによって生まれる。その、市場で交換される際に生じる価値が視覚化(象徴化)されたもの(貨幣)」が直接市場活動に参加できない彼らのような人びとの「労働」に対して分け与えられているだけなのだ。

国民が自らの「生産活動」で生み出した価値をほんの少しずつ取り分けることによって、つまり国民が国家や地方公共団体に寄進した余剰金によって生活費を得ているのが公務員たちである。この中には偉い大学の教授も含まれている。

そしてそのことをよく飲み込めていない学者と呼ばれる人びとが、自分の研究分野とは違う政治・経済問題に対した場合に、「彼らが無意識に寄り掛かっているマルクス系の労働価値説----「労働は尊い」という意味ではありませんよ。経済学用語ですから----彼らの道義心(道徳心)を下支えする」のである。なまじ国民から学者ということで尊敬されているがゆえに、ことはますます厄介なことになる。

だからこそ----つまり「そのような勘違いをしている偉い学者先生たち(文学者だとか社会学者だとかいろいろいるけれども)」を世間に生みださないように----、「お金とは何か」ということを、義務教育活動のなかで、その大まかな概要を子どもに分かる範囲でちゃんと伝えておくべきなのだ。

定義の細部の問題であれこれ悩むのは----最初に紹介したマルクス学者がその例だが、最近では竹中平蔵氏も自分の著書の中で「いろいろあって」と、定義構築にふりまわされてばかりいる「学者の陥穽」に陥って書いていた----専門の経済学者にやってもらえばいいが、しかし、一番大まかな見取り図を、これから社会に出て、いやおうなく生産活動に参加していかなければならない児童生徒たちに示しておくことは、非常に大事なことである。

そうすれば、私のように、中年になるまで、あるいは一生死ぬまで、「お金とは何か、人びとの前に可視化されて利用に供されている貨幣が内包している価値はどのように生じてくるのか」を、「今日のような義務教育制度のもとで、にもかかわらず少しも知らされないまま過ごす人びと」はずっと減るだろう。

国民が「この問題」について「学校で説明を一度も聞いたことがない」という事実は、歴史教科書問題以上にゆゆしき問題なのだ。いまなお労働価値説が国民の無意識から消えないゆえんである。


アメリカ型?

日本の人たちは自分たちがどんなすごい国に住んでいるのか分かっていない。(元メガデス マーティー・フリードマン)


自称保守派の中には、日本経済のアメリカ化というような言い方で「亡国の警鐘を鳴らす言論人」って多いですが----「この部分」だけ抜き出すと韓国の保守派にも反米派はたくさんいますので、そのエトスは実は互いに非常に似ていると思います。ちょうど似たような感性を持った野球ファン同士が巨人対阪神に別れて、「歴史認識問題シリーズ戦」では互いに相手チームに毒づき合っているという構図ですね。どちらもにも品性はあまり感じられません。

まあでも、「敵側」にとっては、「慰安婦イシュー」は「戦略」(「日本にインネンつけ続ける」という大目的)中の「戦術」のひとつでしょう。そしてこの問題でホットなのは実は極東だけ。「約192カ国-数カ国=世界の住人たち」にとっては、ほんと他人事ですよ。そして現実の世界の一般の住人たちは「〈歴史を学ぼう〉などという、お勉強的世界」なんぞではなくて、そういった「観念の世界」ではなく、「自分の実際の生活圏」に存している興味関心と直結している「現在の日本が自分に提供してくれている価値」にしか関心ありませんから。最近の台湾アイドルのレイニー・ヤンの事件(彼女は4年前の出来事を「今」叩かれてるわけです)は「現実の生活感覚(正直さ)」が「勉強馬鹿たちの観念世界(建前)」から攻撃を受けていることを示すよい見本です。

(誤解なきよう付け加えておきますが、私は教科書の記述を順当なものにする運動に反対しているわけではありません。それどころか、扶桑社版の教科書運動がおこる以前、まだパソコン通信しかなかった時代に、中学社会科の教科書の記述がずいぶん変になっているという事実は、その当時の「会議室」[ニフティ・サーブ内]でもたびたび指摘してまいりました。)

私は宮崎県民ですが、「遠い地方の住民」のことは分かりません。たとえば群馬県はどのへんにあり、群馬県民とはどんな人びとであり、群馬県はどんな歴史を持っているんでしょう。分かりません。なぜ分からないんでしょうか。それは「さしあたって、自分の生活現実に鑑みて〈そんなことにはまるで興味が湧かない〉から」です。関心があるなら〈お勉強する〉でしょう。日本国内においてさえ「一般の人びとの〈お互いの生活圏〉への関心の持ち方」というのはこんなもんです。群馬県民の方々も他の地方に対しては宮崎県民の一般の人と同じように暮らしているわけです。

しょせん、「他人」なんですよ、外国というのは。「それが分かっていない人びと」の吐き散らかす「親米」とか「反米」という「政治用語」は、どっちにしろ〈対人恐怖症〉にかかっている人が用いる言葉としか思えません。彼らは、「日々、人前で赤面し続けている」のです。

つまり今の日本の若い人たち(自動車やエレクトロニクス、アニメなどを世界に供給している人びと)が行っている振る舞い、彼らが「現在、世界の一般住人たちに提供している価値」による「影響力」の方が本当はずっと「政治的宣伝力」も持っているってことです。特定国と日本の反日日本人にはそれが理解できませんから、実は「世界的には何の政治効果もない」にも関わらず、「シュースポスの神話」のごとき、岩石運びの徒労(「歴史問題への言及」)を何度も何度も繰り返すことになります。現実の世界は彼らの徒労を無視して先へ進むのです。そして20年後30年後50年後と世代が交代していけばいくほど、「このやり方」の効果は、ますます薄れていきます。

ところで「自称保守派」の内部に紛れ込んでいる国内の「隠れ左翼人」の問題です。私が思うに、どうやっても日本はアメリカ風にはなれませんよ。今でもまったく似ていない国です。国民の気質から何から、ほんとに似ていません。日本の知識人はヨーロッパ型が大好きです。経済観念にしても、唯物論の信奉者である点においても。ヨーロッパではいまやほとんどキリスト教徒はマイノリティー派なのに、あいかわらず日本の知識人は「やつらは一神教だから、うんぬん」と馬鹿なことを言い続けていますが。信仰の価値というものをいまだに保っているのは、南北のアメリカ大陸に住む住人たちの方であって、ヨーロッパ人たちではないということを区別して議論している保守派論客というものを私は知りません。

意外なことでしょうが、17世紀のヨーロッパの言語の発音を継承していまでも用いているのは、カナダ人やアメリカ人たちの方なのであって、本家のヨーロッパの方はフランスもイギリスも17世紀当時の発音から変容を遂げて新しい国語をしゃべっているということも特筆すべき点です。言語的により古くさい発音を用いてしゃべっているのが「新大陸」に住む住人たちだというのは、大変におもしろい事実であります。ミシガン大学社会調査研究所が21世紀の初頭に出した調査結果によりますと、ヨーロッパ人は、ロシア、東欧圏を除いて、どの国でも国民の7~8割が宗教は----彼らの場合は具体的にはキリスト教になりますが----生活に必要なものではないと回答する時代に突入しております。一方南北アメリカの国の人びとは6~7割の人が宗教----言いかえると「彼岸の世界を敬いたい、という感覚を持つこと」----は生活に必要だと答えております。(私は昔、元記事を地元の夕刊紙で見たのですが、現在ネット上ではほとんどその「価値観調査」の言及記事が見つかりません。ということで、内容報告については、はなはだ簡略化されていますが、徳行寺だよりをご参照下さい。)

日本はどちら型に入るでしょうか。もちろん唯物論者の巣窟となったヨーロッパ型であります。同じ質問に対して日本人回答者たちは、8割以上の者が「必要ない」と回答しています。調査対象73カ国中「必要ない派」2位という結果でした。建前共産主義の中国人回答者の結果はさらに日本人の上をいく唯物論者ぶりで、73カ国中「必要ない派」1位。

つまりもし「世界唯物論者コンテスト」というものが行われたとすれば、1位 中国人、2位 日本人、という結果になり、「その唯物論者ぶりにおいて、日本人はヨーロッパ人をすでにしのいでいる」と言えるのです。この調査結果の先に示される解釈というものは「精神生活の前進なのでしょうか、それとも後退なのでしょうか」。「社会科学」は「事実(調査結果)」を提示する技術を持っていますが、実のところ「その意味を解釈する能力」はありません。この調査結果を見て「日本人の精神的進歩ぶりに大満足する人びと」も日本にはたくさんいるでしょう。

感情生活の面でも日本はアメリカとはまったく似ておりません。ヨーロッパ人とは意気投合できるでしょう。「唯物論に基づいた世界観を愛するという進歩的な感情生活」を肯定するという点において……。

アメリカ型市場主義経済といっても、そうやって毒づく人の「理解の仕方」が順当なものなのか、その人の文章を読んでもそもそも「その人がどんな理解の仕方をしているのか」よく分からないものが多いですしねえ。それに「アメリカのような経済をやっていると格差のために国が滅ぶ」というのなら、その元祖のアメリカは「日本よりももっと先に滅ぶハズ」ですが、この理屈はどうなんでしょうか。それとも元祖は滅びないが日本は滅びるのでしょうか。それはなぜでしょうか、その辺の理路をもっと納得できるように書いていただきたいのです。彼らは代案として「新しいこと」を言っているのでしょうか。まったく何も新しいことは言っておりません。アインシュタインのように経済学の「公理を疑う」ことにって経済学の個々の用語の概念からすべてを180度回転させて、新視点による「まったく聞いたことのない経済理論」などを語っているわけでもありません。彼らは昔学校で勉強した知識のみにたよるばかりです。なぜ、「公理を疑う」という骨の折れる作業から入らないのでしょうか。出来合いの経済学の教科書を振り回すだけで、本当に現実を抜本的に変えることができるでしょうか。

「アメリカ型を行うと国が滅ぶ」なら、社民主義で反米主義者の保守派の方は『正論』とか『諸君』とかで気炎を上げているだけで、その元祖アメリカがまさに「アメリカ型経済」で滅亡するのをただ待っていればいいわけです。彼らの言うところの「アメリカ型市場〈原理主義〉経済」というものを「アメリカ」が「本当にやっている」とすれば……。

それは彼らによれば「亡国の経済体制」なのですから、21世紀初頭の今日、マルクスのようにここ日本においてふたたび「予言」をしている彼らは 、「予言」をして「嫌いなアメリカが滅ぶ」のをただ待っていればいいわけです。彼らによればアメリカは理論的に滅ぶハズです。

ということはこれは忍耐ゲームであって、「待っていさえすればアメリカはその資本主義に内包する矛盾によって自己崩壊する」という理屈になり、なーんだこれは、大昔にカール・マルクスが資本論で言っていたことと同じ「予言文句」を表現を変えて言っているだけではないかという結論にいたります。

いつも感じることですが、自称保守派、本質経済左翼の方々の理屈は、純正左翼の論法に似ているところがあります。彼らの振る舞いはイメージ化すると、こんな感じです。

公園に一匹の犬がいるんですが、そこに先験的(アプリオリ)に猫嫌いの人物がやってきて、わめき始めます「あの猫はけしかん、あの猫はけしからん」。

あんまりわめくので指さす方向を見てみるんですが、「猫」はどこにもおりません。確かに公園には「生き物」は存在しているんですが、その猫嫌いの人は「犬」を指さして「猫は好かん、猫は好かん」と繰り返し、「猫にはこんなところがある。猫を放置しているとひどいめにあうぞ」とわめき続けます。でも「公園には猫はいない」んです。

それはとどのつまりアジテーションにすぎません。学問的な言説ではないんですよ。

経済観の変容の必要は感じます。しかし「世界経済」というものは、「国内社民主義」などというもので対応がつくほど簡単なものではないと思いますよ。

資本主義の定義補足

実は前回のエントリーは「博士の独り言」という人気ブログへ出したコメントに触発されて書いたものでした。

「中共の廃棄場-七大河川はすべて重度の汚染」

http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-68.html

中国の公害問題です。私は以下のようなコメントを書き込ませていただきました。

法領域の問題

----公害は法領域すなわち国民の人権問題とリンクしている問題だと思います。「無節操な消費社会」という言い方はいささかステレオタイプな表現だと思います。消費社会とは大量の価値生産と移動が起きている社会のことで、たとえば大量生産で一番恩恵を被ってきたのは、実は庶民です。T型フォードの大量生産が始まったとき、それを買ったのは富裕層ではなく、それまで車なんぞとても高くて手が出せなかった所得層の人々です。大量生産方式の100円ショップがなくなると日本の庶民は嘆くでしょうが、もともとのお金持ちは、100円の茶碗でごはんをたべたりはしないでしょう。この方式がゆきづまると困るのは、実は金持ちではなくて庶民の方なんですよ。いつも人は抽象的に考えますが、経済発展の過程で、そのように人々の間の価値交換圧力が増すことが、雇用の増進と庶民の所得の増進にもつながりました。もし、「つつましくくらすべきだ」という道徳的要求をもった人物が政治改革を行って、産業を社会主義的に再編し、人々の間から物資の交換圧力を減らすと、それは「それまで価値ありとみなしてきた生産物」を「無価値なものとみなせ」ということと同じです。大量生産ラインの工場で働いて賃金を得てきた労働者は、もはや生産活動をする必要はありません。そして彼らは今度は大量の失業者という問題を抱え込むことになります。本当の資本主義はステレオタイプでひとなぞりしきれるものではありません。経済活動を一面的な道徳観から断罪するのではなく、この領域は本当に研究をはじめるとワンフレーズではかたずかないということを、大量生産方式の恩恵をこうむりつつ、道徳的に生きたいという要求もかなえたい庶民は考えるべきだと思いますが。----

そういうわけで、前回のエントリーは以上のコメントを発展させたものであります(一部改定)。自分なりにこういう問題をひとつの文章の形にすることができたので、博士のエントリーには大変感謝しております。

 

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1960年生まれ。宮崎県延岡市在住。

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