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操練会議

このblogは、HP「物部守屋の末裔 勝海舟の研究」の付設ページとして設けられました。
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左右問題は経済思想と国家観で分けよ

現代人が近代の政治思想を扱うとき、いまだに正されていない問題がある。それは「右翼」「左翼」(あるいは「保守」「革新」)という呼称の扱い方についてである。左翼思想とは、一般的解釈では、共産主義あるいは社会主義という「経済体制」を理想とする人々の奉じる思想群のことである。

ところがたとえば、ナチスという政党である。ナチスの正式名称は、「国家社会主義ドイツ労働者党」(現在の東京書籍版の中学の歴史教科書には「国民社会主義ドイツ労働者党」と書いている)、つまり「社会主義」なのである。だが現在でも、世間はヨーロッパに「ナチスの亡霊」が現れると、それを右翼と呼ぶ。「自民族至上主義者」を右翼と呼び、「共産(社会)主義者」を左翼と呼ぶ。ソ連の建国の思想は、今となってみれば、現在、わずかばかりになった共産(社会)主義国家とは異質な理念が、全体を束ねるシツケ糸になっていた。すなわちソ連は「民族の紐帯」ではなく、全世界の労働者の団結を叫んで、世界革命思想の輸出に邁進したのだった。しかし、アジアには欧米列強の植民地から脱するという「特別条件」が労働者問題以前の問題として存在していたのである。

「右翼」とは「極端な自民族優先主義者」のことである。この感情は「経済思想に関係がない」。ベトナムはベトナム民族の独立戦争の支柱として共産主義の理念を用いた。だから民族主義者(右翼感情)がマルクス主義(左翼思想)を奉じてフランスからの独立を達成したのである。現在の中国も北朝鮮も同じである。右翼(感情)が左翼(経済思想)を選んで今日の全体主義的国家を建設したのである。

fuannteinoko01.jpg第二次世界大戦後に植民地支配から脱した国家群の大部分が、実は「社会主義思想を用いて独立の理念の代用品とした」という事実は、いまだ教科書にも書かれていない重大な事実である。多くの発展途上国が独立と近代化の過程で社会資本や生産手段の国有化、すなわち社会主義へと走ったのである。新しい独立政府にとって、国有化は、「自民族の独立と利益の優先化を国民に広く示すための示威行為」となった。だが現実の経済活動の成果としては、その試みはうまく行かなかったのである。依然として国は貧しいままだった。そして、そのようなアジアの発展途上国家群の試みの惨憺たる結果が、たとえば現在のアジア地域に「不安定の弧」が存在する発端のひとつになったのだということも、人々にちゃんと認識されているとは言えない。(外相の麻生太郎さんは「この問題」に気がついて発言をしている日本では数少ない政治家のひとりではないかと私は思っている。)

internetblackhole02.jpg南米やアフリカの発展途上国群もまた、アジアと同じ過ちをおかして今日に至っている。発展途上国家群は国名という看板におおぴらに「社会主義国」と掲げていなかっただけで、先進国地域に住んでいる人々が思っている以上に、実は「世界は(特にたくさんの発展途上国群が)社会主義化した」のである。21世紀の発展途上国に生きる人々は、今その過去の「選択」の反省の発端に立っているところである。(写真は「インターネット・ブラックホール」、国民のインターネット利用が制限されている地域としてネットに載った図である。「不安定の弧」と一致しているのが分かるだろう。)

日本の左翼(共産党や社会党など)はソ連製の思想によって活動を行った。ソ連は「民族主義的社会主義思想」ではなく「脱民族主義的社会主義思想」の輸出国だった。だからこそ日本の左翼は国内において「民族の伝統破壊活動」を熱心にやってきたのである。そしてそれに対して喧嘩をしかけてきたのが「民族の伝統再構築活動」を熱心に行う社会主義者たちであった。

アジアの大部分は、前時代の遺制のなごりや風習を濃厚に保ちながら、そもそも資本主義の発展にともなう「光と影」などというもの自体を経験することもなく(すなわち「ある種の新種の精神体験を経ずに)、西洋の植民地主義をまず克服しなければならない状況にあったが、日本にはすでに自前の資本家が多数育っており、劣悪環境で働く労働者も存在したがゆえに、ソ連製の思想を受け入れる素地がちゃんと存在していた。、だからこそヨーロッパ人がそうであったように、これほど絶大なる影響力を「日本人の精神生活」に行使してこれたのである。

しかし、天皇を崇拝し、大臣にテロをしかけた日本の海軍や陸軍の青年将校たちが、奉じていた経済思想はなんだっただろうか。彼らもまた「社会主義者」だったのである。

民族主義者であれ、脱民族主義者であれ、社会主義者の奉ずる思想の行き着く先は「国家至上主義による、歴史的国家の換骨奪胎、すなわち国家の全体主義化」であった。

だから、21世紀は民族主義者と社会主義思想が結びつくことに眼を光らせておかなければならない。誰かが自分のことを人前で「右翼」と呼ぼうが「左翼」と呼ぼうが、あるいは「保守」と呼ぼうが「革新」と呼ぼうが気をつけることである。それはすでにナチスとソ連の喧嘩(つまり社会主義者同士の喧嘩)のように歴史的に前例があるからである。現在世の中には「民族主義者系左翼」と「脱民族主義者系左翼」の二種類がいて、現在日本において、より巧妙に国民をだましているのは「民族主義者系左翼」の方である。

「どんな人物か知りたかったら経済思想を語ってもらえ」---- 「日本民族のために」だとか「日本民族が大好きだ」とかなんだとか言うような「大声の前振り」は「実は何一つ判断の材料にはなら ない」ということを(なぜならそのような「愛着感情」はわれわれにとって「あまりにも当然の感情」なのだから)、そろそろ彼ら「隠れ左翼たち」に思い知らせてやる時期が来ようとしているのだから。

渡部昇一氏の本から参考文献を引用しておきますので、どうぞ目を通してみてください。

近衛文麿の貴重な証言

ハイエクが昭和19年ごろに書いた『隷従への道』に始まり、晩年の講演に至るまで、繰り返し主張したことは、全体主義は右も左も要するに同じだということであった。ハイエクは元来、オーストリアで教えておられたが、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス・アンド・ポリティカル・サイエンス(LSE)に招聘され、そこの教壇に立たれた。第二次大戦中、あるいはその直前、随分沢山の学者がドイツからLSEなどに来ていたようである。ナチスから追われてきたということで、当時ナチスと対立していたイギリスの学界は、この人たちを大いに歓迎した。

しかし、ハイエク先生から見ると、ヒトラーから追われてきたという人たちは、ヒトラーと同じことを言った人たちと映って いたのである。それはどういうことかといえば、ヒトラーもいわゆる国家社会主義者(ナツィオナール・ゾツィアリスムス) であり、またヒトラーが喧嘩して叩き出した共産主義はインターナショナル・ソシアリズムであって、両方とも社会主義であった。

つまり両方ともに、社会主義という同じメニューで、同じお客様を争っていたわけである。例えて言えば、一和会と山口組が喧嘩しても、山口組と我々が喧嘩することはない。なぜなら、お客様が違うからである。ヒトラーが共産主義とあれだけ激しく戦ったということは、それはとりもなおさず同じお客様を取り合っていたからである……。平たく言えばそのようなことにハイエク先生は気付いた。それで、ヒトラーから追われてきただけでそういう人たちを歓迎するのは、 結局ヒトラーの学説を入れることと同じであるという趣旨のことを、繰り返して述べておられる。

この右も左も社会主義というものは、同じ全体主義(トータリタリアニズム)であるという認識は、日本の学界では戦後は絶対にタブーであった。恐らく、気付こうともしなかったのではないか。ただ私は体験的に戦争中の統制経済ということを知り、家業が廃止されたという体験から、どうも同じらしいと感じていた。ハイエクの意見を聞いたときは、自分の少年時代の素朴な体験が碩学によって裏づけられたような気がしたものである。戦後の日本の社会主義、あるいは共産主義を称賛する人に、「あなた方の言っていることは戦争中の新官僚たちが言っていたことと同じなんだよ」と言ったら、それこそ湯気を立てて怒るであろう。しかし、それは事実なのである。

戦前の新官僚と言われる人たちが目指したことも、やはりヒトラーが目指したことと同じであった。ヒトラーは政権を取るや、すぐに授権法というものを通した。授権法というのは、議会の協賛を得ずに法律を通してもいいという権限を議会からもらうことである。それと同じようなことを、日本の高級官僚もどんどんやり始めていた。それで議会が邪魔にな り、政党も邪魔になるからと、政党まで解散してもらった。小学校を国民学校にすることも、統制経済というのもヒトラーの真似であった。以前、社会主義者として弾圧された人たちも、戦争が始まったころの政府から、喜んで迎えられ た。なぜかといえば、それは社会主義者だったからである。

このことについて、ハイエクはロンドンで昭和19年ごろに気がついて本を書きつつあった。日本では近衛文麿が最晩年に気がつき、昭和20年の2月、硫黄島の戦いのころに、いわゆる近衛上奏文というものを天皇に捧呈している。そ の中でこういう趣旨のことを言っている。

「元来、左と右は違うものだと自分は思っていた。ところが、その後ずっと見ていると、右翼と言ってもよし、左翼といってもよし、全く同じであることに気がついた。これは当然、私がもっと早く気がつくべきところ、まことに申し訳ない」

こう言って、天皇にお詫びを言っている。近衛さんは左翼と右翼は別だと思っていた。ところが、同じものだったことに、段々気がついてくる。当時の青年将校たち、あるいは新官僚たちが目指したことは、天皇というものだけで、あとは共産主義に限りなく近い政権、国家を作ろうということであった。左翼も右翼も同じという近衛さんの上奏文は、ハイエクを体験的に裏づけた貴重な証言なのである。『逆説の時代』(P94-P97) 

渡部氏の引用文も含めて、以上のような観点から、現在「保守」を掲げて政府、大学、マスコミ、ネット等で言論活動している人物(大学教授や作家なども含めて)を観察の対象にしてみるとよい。

日本の右翼(民族主義者)は左翼なのであるから。そして現在海の向こう側にいる政治集団を裏返せば、北朝鮮や中国の主流派(つまり左翼)は右翼(民族主義者)ということになる。まことに合わせ鏡に映る像のように、右翼は左翼、左翼は右翼なのであった。

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