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お金とは何か

もうずいぶん前のことだが、しかし、中年になってからのことだったことも確かだが、ある時ふと「お金って何?」ということに興味がわき、市内の大きな古書店に行き、経済関係の教科書はないかと物色していたら、たまたま大学の講義で使用されたらしいマルクス主義系の教科書があり、その扉のページに書いてあった著者の言葉にどぎもを抜かれたことがある。曰く、

「貨幣とは何か、いろいろ意見があって実はよく分からない」

マルクス主義系の講義を行っていた大学の教授が、そのように本論に入る前に軽いエッセイ風に教科書の扉のページに書いていたのだった。

私は中年以降になって、初めて「お金とは何か」について考えようと思った。たぶん「お金ならものごころのつく頃からずっと日々直接接して生きてきたし、だから、〈その使い方〉はよく分かっている」と勝手に思い込んで満足していたからだろう。だけれども、それは金銭と商品の交換ルールに慣れていただけの話である。現代の多くの人が私と似たような感覚ではないかと思う。

私は、義務教育期間においても、高校の政治経済の時間においても、一度も教師の口からお金とは何かについて習ったことはなかったし、教科書の中にも「お金とは何か」という基礎中の基礎について、記述してあったなどというような記憶はない。そしていまなお、小学中学高校の教科書には出て来ない記述である。

「お金を得たかったら、働け」裏返して「働けば、お金が手に入る」

多くの人がお金に関しては「この説明」で満足しているのではなかろうか。しかしまさにこのような発想こそがいまなお多くの人びとが無意識にもそうだと思っている「労働価値説」を下から支えているのだ。なかでも公務員(小学・中学・高校・大学の教師も含む)がいけない。

文部科学省の役人たちは、義務教育下の児童生徒たちに「お金とは何か」についてちゃんと教えるように、教科書作成会社に「指導」することもない。なぜなら、役人、公務員として働いている人たちこそが、もっとも「労働価値説」的な発想で生活しているからである。彼らは「働いたらお金がもらえる」と考えている。しかし正確には「一般の国民が価値の生産活動によって生じた価値(それは物質世界では貨幣という象徴によって可視化されている)を分けてくれている」だけなのだ。

公務員の活動は「市場価値」を生まないので、それを「直接、市場の経済活動上の交換ルール」によって交換しているわけではない。「価値は市場で出会うことによって生まれる。その、市場で交換される際に生じる価値が視覚化(象徴化)されたもの(貨幣)」が直接市場活動に参加できない彼らのような人びとの「労働」に対して分け与えられているだけなのだ。

国民が自らの「生産活動」で生み出した価値をほんの少しずつ取り分けることによって、つまり国民が国家や地方公共団体に寄進した余剰金によって生活費を得ているのが公務員たちである。この中には偉い大学の教授も含まれている。

そしてそのことをよく飲み込めていない学者と呼ばれる人びとが、自分の研究分野とは違う政治・経済問題に対した場合に、「彼らが無意識に寄り掛かっているマルクス系の労働価値説----「労働は尊い」という意味ではありませんよ。経済学用語ですから----彼らの道義心(道徳心)を下支えする」のである。なまじ国民から学者ということで尊敬されているがゆえに、ことはますます厄介なことになる。

だからこそ----つまり「そのような勘違いをしている偉い学者先生たち(文学者だとか社会学者だとかいろいろいるけれども)」を世間に生みださないように----、「お金とは何か」ということを、義務教育活動のなかで、その大まかな概要を子どもに分かる範囲でちゃんと伝えておくべきなのだ。

定義の細部の問題であれこれ悩むのは----最初に紹介したマルクス学者がその例だが、最近では竹中平蔵氏も自分の著書の中で「いろいろあって」と、定義構築にふりまわされてばかりいる「学者の陥穽」に陥って書いていた----専門の経済学者にやってもらえばいいが、しかし、一番大まかな見取り図を、これから社会に出て、いやおうなく生産活動に参加していかなければならない児童生徒たちに示しておくことは、非常に大事なことである。

そうすれば、私のように、中年になるまで、あるいは一生死ぬまで、「お金とは何か、人びとの前に可視化されて利用に供されている貨幣が内包している価値はどのように生じてくるのか」を、「今日のような義務教育制度のもとで、にもかかわらず少しも知らされないまま過ごす人びと」はずっと減るだろう。

国民が「この問題」について「学校で説明を一度も聞いたことがない」という事実は、歴史教科書問題以上にゆゆしき問題なのだ。いまなお労働価値説が国民の無意識から消えないゆえんである。


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手話の義務教育化

英語教育を小学校時代から義務化するかどうかについて揺れているが、私自身は外国語教育は小学生からやることに別段反対ではない。人々はいまだに「どのように教育を行うべきか」ということについて「関心」を持とうとしない。そして「どのような成果」を「どの時点」でふりかえるべきなのか、ということに関しても長期的な観点に立って眺め直すことができない。

たとえばもし今30歳のあなたは、15年前に学習し、試験された暗記事項を----その出来不出来の問題で、定期試験の前あるいは後に親子喧嘩までした「勉強内容」を----今どれだけ覚えているだろうか。15年後には忘れてしまっても、一向に自分も親も困らないトリビアルな知識を(15年前は烈火のごとく起こった親なのに)、現代人はなぜ「膨大なエネルギー」を使って「試験させられる必要がある」のか。そしてなぜ「長期的視点に立って眺め直せば無意味な行為」のなかから「点数」あるいは「偏差値」として析出化してくる「不思議な数字」のみが、もっとも人々の関心の的となって現代日本人の精神生活を支配続けていることを人々は許しているのか。

日本の教育界の異常さというのは、国家の肝入りで導入された「教育計画」や「教育行為」が時とともに「試験化」されて(つまりロボット思考化し)、すぐに「短期短期の評価の問題をうんうんすることばかりにエネルギーをうばわれてしまう」ことである。

たとえば道徳の問題がある。「人は助けあって生きなければならない」、とは学校でも学習することだろう。しかし児童生徒たちは結局教師たちから説教という形で「言葉を聞かされるだけ」である。「徳」に関わる問題も、現代の教育現場、教育システムで、教育行為化されると、「知識を試される問題」「解答技術に関する問題」に変貌し、その子どもが現代の公教育の影響下に「現実」に他者に対して思いやりのある人間になれるかどうかにかかわりなく、試験化されることで「教育行為」と見なされるのである。

今行われている公教育(義務教育)とは「そのような性質」のものである。

他者に思いやりをもたせたいなら、教科書を使って「文部省で指定された一定時間」を授業に割き、子どもに書かれてあることを朗読させて議論し、教師が生徒に向かって説教をするよりも、まず「現実的な能力・技術」をちゃんと子どもに身に付けさせる方がのちのち「そのとき身につけた知識と技能」が生きるのである。頭はいいが実際には酷薄な少年少女でも、手話を駆使することができるようになって義務教育を終えることは、頭がいいだけで卒業させられる現代の少年少女よりも「その能力を現実に有しているというだけでもずっと社会のために生きることになる」からである。

たとえば、なぜ、人々は手話を義務教育時代の9年間、必修にし連続して学習させないのか。「この能力」は----それは子どもによって新たに身につけられた文字の読み書きと同じような種類の「対話能力」なので、もはや「試験のための知識」ではない----15年たったら、覚えていてもいなくても誰もこまらないようなトリビア(無駄知識)ではない。

大学の入学試験で福祉について上手な論文がかけても、手話でコミュニケーションできない人よりも、言葉を発することができない人々から助けを求められたとき、「相手の言うことを理解できる普通の人」の存在の方が、本当の意味で「徳のある人」ではなかろうか。現代教育は「公的にうまいこと(建前)を紙の上に書けるようなロボット人間ばかり」を育てている。システムがそうなるように人々に強いているからである。

事件現場の警察官も消火活動中の消防士も、そして医師も看護師も義務教育中に身につけた「対話能力」で、とまどわずに手話を必要としている人々と「簡単な対話」ができる、「義務教育中」に学校で身につけた能力は、のちの社会生活の現場でも「社会人の職種」に関わりなく、生かされるのである。そしてそれらの知識や能力は「学校間あるいは学校内部の紙の上だけの空想的な評価競争に資するため」ではなく、「人々の現実生活の上にあらわれる力」なのだ。それこそ「生きた知識(能力)」ではないだろうか。

そういった「義務教育期間を生きた知識と能力の習得の期間とする」ために、学校教育体制はどうあるべきなのか、授業方法はどのように変容すべきなのか、そのためには「土台となる教育思想」は今後どのような変容をとげるべきなのか、いろいろと考えることは出てくるはずである。

「エネルギーの無駄使い問題」は何も「CO2問題」だけではない。「近代教育」というのはもうひとつの「精神エネルギーの無題使い問題」----おおっぴらに行われていながら、「その問題」がいっこうに人々の目の中に入って来ない「隠れたエネルギー問題」なのである。

教員免許更新制度?

ここ日本においては、学力(=受験能力)をつけさせるために、金銭に余裕のある家庭は学習塾に自分の子どもを通わせるが、そもそもこの手の民間の教育機関(国の定める法的な私立学校でさえない)に「就職する」人々は、大学出の者が大部分だろうが、教員免許(いわゆる国が付与するお墨付き)そのものを持っていない者が多いという事実を、学力低下を憂えている国会議員たちは理解しているだろうか。

単に「学力をつけさせる」というだけなら、「勉強を教える人物」に「教員免許」なんぞいらない、という厳然たる事実があるのだ。そして免許を持たない人物が、「国の定める学校という機関」の内部で働いている教員免許を持っている人物よりも有能な知識(あるいは解答技能)伝達能力を持っている場合が多々あるという、「教員免許制度の意義」からすれば「矛盾」した事態が、ここ日本で進行中である。

教員免許とは何だ。

回答:それは国が法的に定める教育機関への「就職試験」を「受けることができる」という「お墨付き」にすぎない。それはこれから教員をめざす者が「試験会場」へ入場するための「特別許可証(パス)」のようなものである。民間の学習塾講師になる資格にはそのような「国家的制約」はない。ただ「国家が法的に定める機関」に「就職」したいなら、教員志望の若者は行政機関に向かって「教員免許」を提示しなければならない。「このパス」を持たないものは「教員という(地方公務員)採用試験そのものが受けられない」。ただ、それだけのことである。それは「能力」というより、「公的機関への就職行為という利害」により強い関係性を持ったものにすぎないのだ。

だから「更新できないことによって免許を奪われる」ということは、「公的機関で仕事ができる権利を失う」、すなわち「(公務員)職を失う」ということである。しかし、「人をやめさせること」において、「このようなやり方」は非常に「もってまわった悠長なシロモノ」であることは民間の感覚からすればすぐに理解できることだろう。それもこれも、教師になるには「免許」がいる、という国家的制約があるせいなのだ。各自治体は「自分たちの地元」で働いてもらう教師を「自分たちで自由に選べない」ように今の制度下ではなっている。市にも町にもそのような権限がないからである。

問題は更新制度によって「不適格な教師を10年ごとにあぶりだす」、などというような「悠長な話」ではなく、「伯楽」すなわち「判断し、判断に責任を負い、対処できるハラを持った人物(人事を扱う者)」が「公的な世界にはいない」ということなのだ。(民間企業であれば、問題が発覚すれば、さっさと指導があり、場合によっては首にされる。)

医者は「国家資格」なしでは開業できないが、こと教育行為については、民間の学習塾が、その成果を示してきた通り、「教員免許」なしでも、「教育業」は「開業」でき、また実際に成果を挙げてきたのである。

教師は「教育学部(あるいは教員免許取得希望の他の学部生のために定められている免許取得のために大学内で取得すべき単位として定められた特定講義内容など)でなければ学べない、まさに教員としての秘術のようなもの」を特に「教育学部」で----他学部生なら「法によって定められた免許取得にまつわる特定単位の取得」によって----学ぶことで、他の一般人たちと比べて特に「子どものエキスパート」になっているわけではなのだ。

それなら、「彼らは大学で何を学んでいるのか」、あるいは、そのような大学内における講義の受講を必修として教育学部生たちに要求する行政担当者たちは本当に、「これから教師になるべき学生たち」が教育のエキスパートとなるために身につけなければいけないさまざまな「要素」について理解しているのか。

それが問題である。

民間の教育機関に勤める人々は、その機関の内部で淘汰されている、分かりやすくいうと、無能な講師は、そこを離れざる得なくなるのだ。問題は「国の定める機関の内部」に「自浄作用が働かない」ということなのだ。それは一般の公務員の内部改革がいままで遅々として進まないできたこととパラレルな姿をしている。

公務員は「組合員」として公務員同士の利害を守りあうからである。教員の採用が都道府県単位になっているのも問題である。今後は採用および解雇問題の責任の所在を市町村単位へと狭めて、教師の採用評価問題にしても、互いに顔の見えあう環境において保護者たちを代表する者たち(数名)こそが「その現場」に加わり、教育行為における対等な責任者同士として意見を述べあいつつ「双方が土台から責任を負う」べきなのだ。ちょうどこれから裁判員制度が始まり、「一般同胞の罪を民間の一般同胞たちが裁く」ように、人々は、もっともっと現場に責任感覚を持ち、積極的にコミットしていくべきなのである。

教員養成と採用権の問題、これを21世紀の日本の教育問題の最大の課題とせよ、と言いたい。

今やっていることは政治問題(右からの左への意趣返し)にすぎない。それで子どもがりっぱに育てられると思っているなら、大間違いだ。

政治ではなく、教育思想の土台に目を向けようと人々が本当に決意しないかぎり、人々は今後も「人として」たいした成果はあげられないだろう。


勉強馬鹿の時代

近代の歴史問題は〈素人〉にも扱いやすい。近代人は「勉強馬鹿の時代」の申し子である。なぜなら、近代----前時代に代わって学者が人々の精神的権威となって「人々の精神生活の管理を行うようになった時代」----つまり「勉強馬鹿の時代」には、人々のために参照に供されるための「たくさんの本」が世界のいたるところにうず高く積まれているからだ。

彼らは「それを読む」。そして「〈そこ〉から感情を育てる」。だが果たしてそれは「現実的な感情」なのだろうか。

「歴史を政治ショー化」している人々----特に極東の勉強馬鹿たちのことだが----彼らが追いかけるのは「近代のほんの短い時期」における「歴史の事実」である。それはなぜなのだろうか。では現代人が「そうである」として受け入れている過去2000年における歴史の記述は「事実」なのだろうか。われわれは「正しい〈解釈〉」が本当にできているのだろうか。

古代人は「参照すべき書物」をほとんど残さなかった。「紙上の報告が人々をこれほどにも縛りつけるようになった時代」は「近代以外」にはほかにない。人々は、近代以前の「歴史の事実」というものを本当に押さえているだろうか。

古代に「あの事件」「あの戦争」があったので、その後の「展開、変容」が生じたのではなかったのか。そのとき個々の民族集団は「誤った選択」をしなかったのだろうか。ならば、なぜ人々は「その時代以前」にまで戻って、いま学者や政治集団がおこなうように、「時代精神をその時代に引き戻そう」とはしないのか。だが実際のところ、現代の特定政治集団は「そんな遠いことには関心がない」。

われわれは忘れている、「いま世界に住んでいる国民の先祖はどんな民族であれ、皆違う場所から移動してきて、先住民の土地を奪って暮らしているのである」。

現代人が道徳的に攻撃しているのは、その膨大な民族興亡史のなかのごく新しい時代の一部に過ぎない。なぜ人々は----とはいえこれは特に極東の黄色人種系国家内(もちろん日本も含む)に住む「近代人」に特徴的な反応形式(オリエンタル・モード)なのだということもここで強調しておく---「好ん」で「そんなことばかり」したがるのだろうか。そこには近代人特有の「無意識の意図」が含まれてはいないだろうか。そのような「道徳めかした糾弾」を好んで行いたがる人自身にさえ気がつかれていない「極東系近代人特有の感情的傾斜」が、彼らの感情を操っている。罵倒しているとき、彼らは最高に気分がいいはずだ。小中学生、高校生が嫌いな同級生の携帯電話に「馬鹿、死ね」とメールすると最高に気分がいいように。

しかし、勉強馬鹿、道徳馬鹿になった人々は互いに(リンク先は具体例、もちろん日本人にも同系の人はいる。彼女は学校では「成績のいい生徒」だったのだろう。そして当時「教師たち、その他」から流し込まれ、「学習して得た感情」を、今度は自分が担当する生徒たちに「そのまんま流し込む」ために教師になる。)----それは、「オリエンタル様式による近代教育(学内学外を問わず)」の「結果」でもある----、自分たちの先祖の振る舞いを棚にあげて、他人の先祖の振る舞いを道徳的に攻撃する快感に酔いしれ続けて終わりがない。「勉強馬鹿の時代」がもうしばらく続くゆえんである。

近代の大戦争が終わった。そのことによって、もはや今後は戦争によって、あるいは暴力によって、他人の土地を奪うことは容認しない時代が始まったのである。誰がそう決めたのか。現代から見れば「罪人のように見える略奪者たちの子孫たち」がである。かつての敵も味方も含めて「罪人の子孫たち」はそう考えるようになった時代がいまようやく始まったばかりである。

それなのに、いまだに世界は前時代の帝国主義感覚で営まれていると思いたがる人々がいて、まさに、「この手の人々」が----彼らは愛国などと唱えているが----「現実を正しく観察することを一般の人々の手から隠す手助け」を、左翼側の思想集団とともに----なぜなら〈左右ともに〉彼らがよってたっているところの世界感覚は、マルクス由来の帝国主義論から受け継がれてきた世界感覚なのだから----行っているのである。しかし彼らには一向にそんな「自分の脳髄に巣くっている〈自動思考〉の〈由来の自覚〉」なんぞ起きる気配もない。

多くの「民族の精神的エポックとなった事件」が過去にたくさんあったはずだが、いまや誰もそれを「認識」したいとは思わない。そのような時代は「資料」が少なすぎて 「勉強馬鹿の手」にはおえないからである。それならば彼らはいったい何のために歴史を利用して政治的発言をしているのか。

「自覚なき精神生活」、まさに「この時代」が「学問的体裁という新たな権威に抑圧された勉強馬鹿の時代」であることが、人々に「見た通りに解釈できない不自由」をもたらしているのではなかろうか。いずれにしろ「そこ」から「自由」にならない限り、「時代精神」を「あらたな場所」にもたらすことはできない。

現代人の宗教観は唯物論から来ている

最近、池田信夫さんのブログを見つけて、「宗教」という言葉の使い方に「思わず反応」してしまい----これは私の修行不足のせいですが----以下のようなコメントを投稿しました。

宗教の定義を----実を言うと、この「現象」は特に日本においてはなはだしいのですが----間違って使い出したのが、「近代」です。「彼岸を敬う思想」ではない「思想・観念」を「むやみに無批判に信じこむこと」は、正確に言うと「宗教行為」ではありません。しかし「唯物論者」には「彼岸は存在しない」ので、「存在しない対象」を「敬うやつら」は、皆馬鹿者にすぎません。そして、「彼岸世界」を切除した「宗教定義」の「転用」が----おもに罵倒用語として----「唯物論者」の側から行われるようになって、地球史的にはおよそ2世紀ほど経過しているところです。

「近代人」が(特に「近代の知的日本人が」と補足しておきましょう)、宗教の「性格あるいは一側面」を「歴史的にふり返ってみたとき」----そのふり返り方というのは「みかんの皮をむいて、その皮の様子でみかん全体を認識する」ような態度でもあります----「科学主義という〈宗教〉」によって----近代人が無意識にその前提としている宗教定義によれば、こういう「自家中毒的表現」が許されることになります----眺めたときに「不合理なものを信じ込んでいる」という側面のみがフレームアップされるようになりました。それは「科学主義」という「宗教」を信じ込んでいる人びとによって「再定義」されるようになった「近代人」にとっての「宗教観」です。

私は「何かをむやみに信じ込むこと=宗教」という定義(というより語義ですね)を使う人の宗教理解というのは、実は大変に浅いものだと思っています。

近代思考に毒されていない「健全な言語感覚」の持ち主なら、「~は宗教だ」というとき、これは「君は花だ」と同じような、ただの隠喩、すなわち「詩的表現にすぎない」という自覚があるはずです。ですが、そういう自覚もなく、「途中で詩人になってしまっている自分を自覚できず、自分は論理的に書いている」と思い込んでいる学者や学者モドキが、ここニッポンでザクザク、土の中から出てくるようになりました。しかし彼らがいかに「西洋の思想」を援用して議論しているように装っても「それこそまさに日本的現象なのだ」ということが分からないのです。

それは、公園の犬を指さして猫だと攻撃する態度とそれは同じなのですが、彼らには「本当に基本的で簡単なこと」は分かりません。彼らには「難しいことしか分からない」のです。



と、まあ、ここまで、言い回しに「私の人間的修行不足さ」が出てますが(いつもあとで反省するんですが)、治りません)。

こういう反論というのは昔、「共産主義は宗教だ」と言った方に対しても行ったことがあるんですが、「宗教」という言葉を用いたこういう「近代的言い回し」は、現代日本人の間であまりにも「当たり前」になってしまっているので、私にとっては、終わりのこないモグラたたきのゲームをやっているようです。

池田信夫さんのブログ自体は大変おもしろいので、見つけたその日に、掲示されてあった著書の写真をクリックしてアマゾンに飛び、『電波利権』と『ネットがテレビを飲み込む日』を注文し、昨日前者の方を読了したところです。非常におもしろい本でした(皆さんもどうぞ)。

こういう機会なので、昔、ネット上に載せ、現在消えてしまっている過去の投稿を再掲示しておこうと思います。以下のエピソードです。


以下は、大学受験生向けに作られた問題集に採られていた文章のひとつです。現代日本の高校生はこのような「宗教についての日本人学者の考察」を読まされ、なおかつ「試験」されているわけです。

では、みなさん、じっくり読んでみてください。唯物論の時代に日本の学者が宗教を考察するといかなるものになるのか、その典型を読み取ってくださると幸いです。

あるものがあるものより勝るという人間の持つ論理の進展によって、人間は、多神から主神へ、主神から唯一神へと概念を発展させていったが、その唯一神が、万物を動かし、したがって万物を超越するものであるという認識が高まるにつれ、その万物のうちの一つである人間が、その超越者を直接には理解し得るものではないという理論がさらに働くことになる。

したがって、人間が超越者の少なくとも一部を理解し得るのは、超越者が人間の形をとって、現れ、それによって、人間が、人間なりに超越者の(意思の)一部を理解し得るということになる。超越者が人間に肉の形をとること、すなわち受肉(インカーネーション)ということが人間にとってもっとも重要なことになる。イスラエルではナザレの寒村に生まれた大工、イエスがその人であり、またインドでは、ネパール近くに生まれたブッダがその人であると理解された。こうして、キリスト教と仏教という極めて論理的な二つの宗教が生まれ、そしてその理論性のゆえに、世界の多くの部分に拡大していくことになる。人間はかならずしも論理的な存在ではないから、それ以前の論理段階にある諸宗教も依然として存在している。仏教とほぼ平行して形成されたヒンズー教は、超越者が、ひとりゴータマにおいて受肉したのではなく、目にみえる様々なものへ顕現していると考えるもので、一見、多神教的であるが、基本的には一神教と考える考えるべきものである。その限りにおいて、十分論理的である。(中略)キリスト教と仏教はこのように極めて類似した性格の宗教であるが、一方、はなはだ大きい相違もある。それは超越者と世界との関係に関するもので、本書の主題である、砂漠と森林、西と東の違いが、まさにそこに発している。イスラエルにおいては、神は、嵐の神を通して理解されたものであり、それは、砂漠のなかでは芥子粒にしか見えない人間の知力を隔絶した動きをもつものであって、そういう微々たる人間が存在するのは、神によって存在せしめられたもの、すなわち、神によって創造せられたものものであるという考えが成立し、それが万物に及んで、天地創造の時に、つくられ、終末の時に終わると考える。天地創造と終末という概念は、日本人にははなはだ理解しにくいが、キリスト教の世界では日常のことであり、ヨーロッパでは、近代地質学が誕生するまで、その天地創造は、紀元前五四九二年であったという計算までなされており、そもそもその近代地質学が発展したのは、天地創造の時から現在に至るまでの歴史のなかに示された神の摂理をよりよく知ろうという動機によって発展したものである。これに対し、仏教では、超越者あるいは究極者というものの理解が根本的に違っていた。(鈴木秀男『森林の思考・砂漠の思考』)


筆者の考えによれば「宗教は人間の頭から考え出されたもの」なのです。だから筆者は「神々は人間が作り出したものだ」と思っています。けれども一方で現代人は「古代の人々は迷信深かった」、「現代人よりずっと愚かだった」と思っています。典型的な唯物論的考察態度ですけれども、しかし「このような考え方」というのはその他の現代日本人にとって別段奇異な見方ではありません。そしてこのような文章問題を読まされる現代日本の高校生たちも、別段この文章を奇異な文章だとは感じないでしょう。それどころか、容易に文章を読みこなせるようなタイプの利口な子はむしろ「文章の内容」に感心さえするかもしれません。現代日本にはこのような文章に違和感を感じることなく文章を読み、「完璧な答案を書ける高校生」が数多く存在するのです。その高校生はみごとに大学に合格するでしょう。けれども、この生徒は、無意識に選択された、この学者の書いた文章に出てきたのと「同じ前提」をその後も鵜呑みにし続けるかもしれません。あるいは、大学に入ったのち、さらにほかの学者から、さらにタチの悪い唯物論的宗教論や政治論を読まされるかもしれません。さしあたって彼がそのような精神生活を送ったとしても、これといって彼の実人生に不都合は生じないかもしれません。けれども、そのような日本人が今、世界の宗教問題と政治問題を前にしたとき、その「意識されなかった前提による考察」が復活するのです。現代は右翼でさえ実は唯物論者です。「宗教」というテーマで彼らは何の話をしているのでしょうか。実際に彼らが行っているのは「宗教」の話ではないのです。だから「その中」に「実」はないのです。では彼らは何を言っているのでしょうか。「〈虚〉を信じ込んでいる〈彼ら〉の文化を守れ」と言っているのです。彼らは宗教生活における「儀礼的態度」は遠巻きに見守りますが、実際には「唯物論者として」生きています。そして「それこそが正しい態度だ」と意識的にも無意識的にも思い込んでいます。

そして古代から日本人の精神を陶冶してきた仏教という宗教の伝統をふり返り、われわれの先祖が----当時片田舎にいた貧しい農民たち、そのような人々に連なる私たちの曾祖父母にいたる先祖たちまでもが----いかに「彼岸の思想」に真剣に向き合ってきたかという事実を意識化するなどというような振る舞いは眼中にはありません。この1世紀の近代思想の衝撃が日本人の感情生活すべてを覆してしまいました。そういうわけで現代日本人の多くは「宗教」と聞くと----若い人ほど----「カルト」のことを連想するようになりました。彼らにとって宗教=カルトなのです。そして一方では、宗教法人認定の法律上の定義を読み上げて「こういう条件を網羅しているものが宗教です」などと得意気に語る人もいます。


さらに、もうひとつ、今、日本の子供たちが「公教育」によって「どんな思考態度」を流し込まれているのか、その例をご紹介しましょう。

知り合いの地元の高校一年生がこんな話をしてくれました。

最近、倫理社会の授業で、30代前後の担当の先生が生徒たちにこんな質問をした。

「きみたちのなかで、自分は何の宗教にも入っていないと思う人は手を挙げてくれ」

少年は自分は別に何の宗教も入っていないので、手を挙げたのですが、先生はすぐにそれを受けて、

「今手を挙げた、自分は何の宗教にも入っていないと思っている人たちの思い込みも、実は宗教です。きみたちは自分は何も信仰していないという宗教に入っているのです」

と言ったそうなのです。

その話をしてくれた少年は今でも納得がいかない様子で、憤慨しながら「先生はおかしい」と言いました。

その若い高校教師の「倫理社会」の指導法を聞いて、私は「近代人の内面」の一種の典型を見たような気がしたので、この話にはいたく興味がわきました。

一番簡単に理解できるのは、少年と教師の「宗教」という言葉に込めた意味はまったく異なっているということです。ですが、その教師はそれを説明せず、一種の詐術を使って高校生たちを騙したのでした。

はたしてどちらがより深く「近代病」に罹っているのでしょうか。それは「子供」に「倫理」を教えているその若い教師の方なのです。フランス発のポストモダニズム、すなわち価値相対主義という思想風潮がハレー彗星の到来とともに世界中にまき散らされたことがありました。しかし、この思想自体はまったく新しいものではないのです。なぜなら、マルクス主義というプレ・ポストモダニズムがずっと以前に人間の精神生活に衝動を与えていたからです。「すべての精神生活はイデオロギーにすぎない」「それは経済活動の上に咲いた幻影、徒花である」「経済の管理こそが真実である」こういいながら、マルクス主義は世界中の貧しい人々を「さらなる不幸に陥れる準備」をしながら、「貧しい人々の精神」から「彼岸を敬いたい」という「先祖から受け継がれてきた感情」までも奪いさったのでした。

「共産主義は宗教である」という言い方は、まったくマルクス流の論理の上に立った言い方なのです。マルクス流の思考方法になぞらえて考えれば、そういう「自家中毒的表現」に到達せざるを得ません。だからこそ今この時代に「共産主義は宗教だ」というマルクス的言い回しが出てくるようになったのです。今多くの人々が、「そうなのだ」という自覚もなく、マルクス流の思考態度でマルクスの思想を攻撃しています。

この記事を読みながら、「抹茶はいったい何の話をしているのだ?」、「宗教については、むしろその教師の言うとおりじゃないか」、「そもそも抹茶はなんの話をしたいのか分からない」というふうに感じられる方もいらっしゃることと思います。

なぜアジアは一方でこれほど激烈に西洋産無神論たる「共産主義思想」に精神をがんじがらめにされてしまったのでしょうか。それは実はアジア人の自我がすでに変化をしており、たとえ外面上は昔ながらのアジア的信仰生活を営んでいるように見えても、その「内実」は前時代とはまったく別のものになっていたからです。アジア人の宗教生活の内面が空洞化していなかったら、アジア人の精神が近代的思考方法を理解できないほどに前時代的精神に取り巻かれていたなら、アジアは決して共産主義思想におかされることはなかったでしょう。この「伝染病」のような病は「新しい自我」を獲得していく過程で人類が一度は「罹患」しなければならない「克服すべき病」でした。

21世紀以降、人類は「そのような相対主義的思考方法」に再び「懐疑の目」を向ける必要がある、これがずっと抹茶が当HPで追いかけているテーマでもあります。

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