世界の趨勢は中東地域も含めたアジア世界の精神的発展にかかっています。現在のアンチ・アメリカ派の議論はその視点がまったく欠落しています。そして日本人はこの問題に真剣に関心を寄せたことがありません。そして学者とそのエピゴーネンたちも抽象的に民主主義の批判はするようになりましたが(それなら自宅の椅子に深々と腰掛けたままできる楽な振る舞いです)、現実にイスラム世界を含めた東西アジアで起こっている体制の停滞状況を見て現実的な痛みを感じようとすることはありません。ですから、反資本主義の立場から抽象的に考察すると、「悪いのはいつもアメリカなんだ」ということになります。けれども彼らは資本主義が何なのか本当は説明することができません。実は彼らの大部分が真剣にこれらの問題と格闘したことがありません。彼らにとっては資本主義とは拝金主義思想でしかないからです。その前提から世界問題を議論し始めれば、結論を出すのに数秒とかからないでしょう。彼らは道徳の話がしたいだけなのです。しかしその道徳感情とはどこから出てきたものなのでしょうか。彼らが児童生徒の時も、彼らは学校の教師からたびたびそのように資本主義の悪口を聞かされてきました。大人になった今、ただその経験を思い出して安易な判断を行っているだけなのです。彼らは自分は社会主義者ではないというかもしれませんが、社会主義者と同じように経済問題を眺めているという自覚がまったくありません。
しかも日本人の多くが、現実のアジア世界はいまなお大部分が民主主義以前の政治体制のなかで近代化への苦闘を行っている最中なのだということを意識したことがありません。それは戦後の左傾的な空気のなかで、学者もマスコミも学校教師も、その「アジアの精神問題の存在」を子どもたちの前から隠してきた結果でもあります。例えば現在、中国の経済発展については何度も採り上げて、中国には経済特区というものが「ある」ということは学習しても、中国には国会というものは「ない」ということを子どもたちが学習することはありません。中国や北朝鮮やベトナムやミャンマーやその他アジアの発展途上の国々の「精神生活の現実」について、学校の教師たちは児童生徒の前で真剣な憂慮を表明するようなことはほとんどありません。ただ当たり障りのない記述がなされている教科書の単語を拾い上げて、それをテストして、「お前はアジアについてよく勉強している」と褒めたり「お前はアジアの理解が足りない」と不平をこぼしたりするだけなのです。
アジアには「国民の議会」の存在しない国、あるいはあっても形ばかりで議会政治が機能していない国、「言論の自由のない国」「信教の自由のない国」がたくさんあるのだということを、日本の子どもたちは知りません。学校の教科書にはそういうことは書かれません。教科書を子どもたちにあたえる執筆者たちは何をおもんぱかってか、日本人が使う教科書にも「中国には、国民の選挙によって選出された国会議員というものは存在しません。したがって中国には国会がありません」とは書かないのです。
教育現場でもそういった「現実問題」は教えてこなかったのです。だからアジア地域の前時代の遺風を温存し、その遺風の中に社会主義的体制を注入してアメリカと激突させようと思っている勢力にとって、日本人がこの問題を意識化できない状態のままでいることはまことに都合のいいことです。変わらなければならないのは、まず 「アジアの精神生活」なのだという「隠れた世界問題」が存在するということを、声をあげて語る知識人は日本にはほとんどいませんでした。
真の国力(民力)の向上は「国民の精神生活」が支えているのです。「新生した国民精神」なくして、ヨーロッパやアメリカと思想面・経済面でも競えるでしょうか。18~19世紀、東西のそれぞれの国民の精神生活の民力の上で圧倒的に負けていたからこそ、アジア世界は植民地化され、ヨーロッパ人に2等市民扱いされるという精神上の屈辱を受けてきたのです。アジアが経済的に貧しいのは「アジアの精神の貧しさ」(真に開かれた国民精神の不在)の結果にすぎません。
今もなお白人国家以外の民主的で開かれた豊かな国家は東西アジアのなかで日本以外に存在しません。近代、日本のみが突出してアジアを牽引してきたのです。中国がいまの日本と同じ立場で同じ時期に民主的な近代化を成功させていたら、21世紀のアジアはいまとはまったく異なった様相をしていたでしょう。しかし、まさにその中国こそがアジアの精神的停滞の最大の原因となって今日にいたっています。
戦後ずっとG5やG7に、いつもひとりだけ肌の異なった人種が登場してきたのを、日本の子どもたちはテレビニュースで見てきました。それが東西アジアが「世界に送り出した唯一の黄色人の代表者」でした。いま少しずつ、アジアニーズというような言葉が生まれ、日本以外にも、アジアは精神的にも経済的にも力をつけてきましたが、それでも日本が「国民の自由な精神活動」と「国民の自由な経済活動」の牽引力となっているという状況は変わりません。
日本の近代化の過程で、マルクス主義がヨーロッパを荒し回るようになる以前に、明治政府が西欧から「国民の自由な精神生活」と「自由な経済活動」という理念をいち早く導入できたのは天佑でした。アジア地域へのマルクス主義出現以後に、近代化を始めなければならなくなった、その他のアジアの民族は、「半世紀遅れた近代化」のために、おそろしい境涯に陥らねばならなくなり、いまその治療がずっと行われている最中なのです。
現在の日本と引き比べて、明治政府のやったことはあれこれと不十分だったと批判する人々もいます。実際現在の子どもたちが使っている社会科の教科書は歴史も公民もそのような批判に満ちています。しかし日本人の精神生活が「戦後」いきなり変わったわけではないのです。戦後はその深度が一段と深まったのでした。現在、道徳問題として先進国がみな一様に抱えている国民の精神の負の面は、あくまでも「精神の領域」として対峙されるべきものです。多くの人がこれを「経済システム」のせいだと深い考えもなく語ります。しかしその理由づけこそ戦前から社会主義者がやってきたことではなかったのでしょうか。「経済システムを変えれば国民が皆平等に幸せになれる」と。そして自分は道徳家だとうぬぼれていた人々は、この地上に恐るべきいびつな国家体制をもたらしました。これらの道徳問題について、今後、自分が現在自覚なしに依拠している意識の暗がりの中に置かれた前提に光をあてて、「そう判断する根拠の正しさの吟味からこそ新たに問い直そう」と、人々が本気で決意し、新しい思考態度で精神問題に対峙していかない限り、人々は「社会主義者の感情を結局後ろからなぞり続けるだけだ」という「現在日本で起きている精神状況」から一歩も前に進めないということになるでしょう。
国民の「自由な精神生活」という点で「日本に伍する国家」は東方アジアにも西方アジアにもいまだありません。けれども、そのような性格を持った国家は今後長い時間をかけて東西アジアにますます増えていくのです。彼らは新しい精神生活を獲得しようとしている最中です。日本はもっと自信をもってよいのです。そして大人たちが「こうすれば金持ちになれる」「お前たちの未来の資産が奪われようとしている」「お前はIQが低いから低所得層の下層民になるぞ、それでもいいのか」というようなことではなく、学校という場所でまるで心に響かない現実感の希薄な表象ばかりを多量に詰め込まれ、その意味もよくわからず試験されて疲れ果て、本当はもっと現実感のある生き生きした精神生活に深くかかわりたいと心の深部でたえず感じながら生きている現代の子どもたちに、アジアの中の日本について理想を語るべきなのです。
日本の子どもたちや若い人々はもはやかつての日本人のように欧米人に劣等感を持っていません。彼らは「強い自己意識をともなった魂」を持って、新しくこの日本という国に生まれてきました。戦後ずっと、密かな地下水流となって、弱い自己感情を持った自信なきインテリ人の脳髄を侵してきた陰謀論も人気を失っていくでしょう。彼らは今まで同様、今後も椅子から立ち上がることもなくあれこれと思考作業を続けながら本を書き、空疎な言葉の並べ替え作業に没頭するでしょうが、誰も彼らを敬意をもって見上げたりはしなくなるでしょう。「陰謀論という屈託する精神」は、そういう個々人の弱い自己感情(魂)のバイアスに影響されて生じた世界観、あるいは世界の感じ方でしょう。劣等感こそ猜疑心の生みの親だからです。ですから、今後ますます、日本の若い人の間から陰謀論は人気を失っていくのでしょう。未来に諸外国との軋轢がまったくなくなるというわけではありません。今後も国際問題はそのつど時の政府同士、双方の国民同士の具体的なイシューとして、アメリカ相手にもアジアの諸国相手にも起こるでしょう。けれども、新しい人は、かつての日本の若者たちのように屈託しないでしょう。そういう新しい人々が、日本とアジアの精神生活を前進させてくれる原動力になるのです。
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