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1960年生まれ。宮崎県延岡市在住。
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以前のエントリーで、「人々は真剣に経済の問題と格闘したことがない」にも関わらず、「資本主義とは何か」をすでに分かった気になっているというような趣旨のことを書きました。

経済というと、奇妙な金融系の方程式を持ち出して、人々の「経済を理解したいという欲求」を脅しにかかる人が多いので、多くの人が「経済は分からないものだ」と、亀が外の世界を見渡したいと思いながら、他の生き物に脅されてぷいと首を引っ込めてしまうように「本当のところを知りたい」という欲求を引っ込めてしまいます。そこに道徳家があらわれて、「金儲けはいかん」といって「資本主義は金儲け思想だ」と紋切り型の道徳論をぶつと、「現実に生産活動をおこなっているはずの当事者たち」が、自分の生活感覚とは異なった理屈を注入されても、反論できないという悪循環に陥ってしまいます。

多くの人に、本当は、デリバティブとかヘッジファンドとかいうような「特定領域の問題」ではなく、もっと包括的な経済活動全体の見取り図を得たいという欲求はあっても、それらの欲求を持った人々が「自分自身の労働行為や購買活動の現実」から得た体験と、多くの自称経済専門家たちの繰り出す言葉とをつきあわせても、かえって「経済とは何か」という素朴な疑問の答えが、ますます分からなくなるだけだという結論にいたります。

ですから、経済道徳家たちの、拝金主義、大量消費社会という批判には、全面的にうなづきながら、一方で雇用問題や失業問題を解消し、賃金のベースアップ問題も前進させるべきだと彼らは思います。多くの人は「大量にモノを生産する工業システムがいま破壊されたら、自分の勤めている会社の生産物は価値なきものとされ、倉庫に在庫品として積み上げられて、結局自分が失業するかもしれない」とはついぞ考えません。

中学校の公民の教科書に資本主義の定義が出てきます。「資本主義は利潤の追求を目的とする」と書いてあります。「利潤目的に活動するのが私企業で、利潤目的に活動しないのが公企業です」と続けて書いてあります。教師を含め、多くの人々がその記述を「道徳的に受け止めている」のです。公企業は(あるいは最近はやりの非営利団体NPOなどは)人々の税金や寄付で動きます。公企業を動かすためには、私企業で利潤をえた会社と労働者たちが、その一部を活動費(税金や寄付)として国や地方公共団体、あるいは非営利団体に納めなければなりません。公企業は私企業で働く人々がいなければ、活動しえない活動領域なのだとは考えません。公企業の方が「道徳的だ」と勘違いする中学生もでてきます。

現実の社会で生産活動をし、売買をしあって生きている私たちは、現実の中からたえず、いわゆる「資本主義というシステム」を改良し続けてきました。経済領域は、一方で、法領域からの働きかけと、新しい価値を生むために生産活動に工夫と発明を導入する人間の精神力という精神生活からの働きかけも受けています。資本主義システムというのは、実はとてつもなく複雑で、巨大に絡み合った宇宙なのですが、彼らは現実の中から現実に見合った資本主義の定義を、再構成しようとはしません。そしていまだに、戦前から使い古されてきた「資本主義の定義」を暗記して、道徳的な攻撃心を心のなかに抱きながら、自分が攻撃を加えている生産活動と消費活動にいそしんでいます。そして労働者の権利を守れと叫んでいます。

そうすると、自分の内部に巨大な矛盾を本当は感じるはずですが、「近代という勉強の時代」は権威によって教科書などで与えられた説明には矛盾はないのだろうと、本当は皆が心の深部で感じているはずの「それはちょっと違うのではないか」という疑問を押し殺す働きをしてきました。

資本主義とは何か、という問いに関しては、実はあたらしい性格付けが必要とされているのですが、人々はいまだにその試みに手をつけようとはしていません。道徳的糾弾のニュアンスを含んだ「19世紀以来の学問的な説明」が有無を言わせぬ権威となって、現実に生産活動と消費活動を行っている人々の感覚を麻痺させているからです。

学者の使命はなんでしょうか。戦前から継承されてきた実態とはずれた道徳的糾弾という幻影を権威的に伝えることではないでしょう。そうではなく、人々によって学問の場で働くことを許されている人々は、人々の本当のことが知りたいという欲求をちゃんとくみ取って、紋切り型ではない資本主義の性格付けを分かりやすい言葉で行うべきなのです。日本の学者は多くが社会主義的な視点からモノを言う人々ばかりでしたから、庶民の知識や感情はとても偏ってしまっています。自分のやっていることと主張されていることは矛盾しているはずなのに、庶民はそれに気がつきません。学者を自称してはいても、哲学や文学領域の学者は、庶民と変わらない感覚で、経済領域に接しています。なによりもまず「経済領域に道徳的に近づく」という誤りをおかしていることに彼らは気がつきません。この領域には、マルクス出現以来、巨大な霧のようなものがおおいかぶさっているのだということを認識しないと、現代の実情に見合った新しい資本主義の性格付けはできないはずなのです。主義というものは、成長します。19世紀の労働者の立場と21世紀の労働者の立場はまったく異なってます。それなのに、19世紀の定義で21世紀の経済活動を全部説明しきれるでしょうか。

学者の仕事は、難しい経済方程式で庶民を脅しつけることではないはずです。知識人が知識人でいられるのは、具体的な生産活動に従事している人々が、その生産活動の成果の幾分かを、知識人が精神活動を行えるようにと振り分けているからです。知識人は言葉という目に見えないものを扱います。それだけなら、売り物にはなりません。知識人は人々のさまざまな下支えがなければ、たとえば本一冊出せません。紙を作る人がいて、版組みをする人がいます。そこにはすでに商品という価値の交換がさまざまに介入してきます。一枚の紙ができるまでのさまざまな経済活動を思うだけで、そこにどれだけの人々の手が介入しているのか簡単には一望できないはずです。

こういったことも資本主義の一側面です。人々は「新しい説明」を求めているのです。

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