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兵頭二十八氏の「高校はいらいない」という意見、非常にいいと思います。

http://sorceress.raindrop.jp/blog/2006/10/#a000736

世間では学力の低下が問題視されていますが、「はて、その世間で言われているところの、いわゆる学力の意味そのものを問おうとしない教育改革って何?」と昔からずっと思っておりましたよ。そういう意味で兵頭さんは、もっと根本的な疑義を提示されているわけです。あまり極端化して書くと誤解をされるかもしれませんが、私は学力が不必要だと言っているわけではないんです。

前のエントリーで学校の教師が教科書の単語を試験して「お前はアジアをよく理解している」とか「アジアを理解できていない」とほめたり不平を言ったりすると書きました。アジアの地理のテストで0点をとろうが100点をとろうが、学校という場所で、子どもたちと教師との間で共有されている知識----あるいは「設問に正しく解答できるという能力」は----まるで現実感のない世界で、言葉遊びのために使用されるだけのものになっています。人々はそれを「学力」と呼んでいます。学校という隔離された場所で、校舎の向こうにある「現実という線路」の上を高速で進む列車のゆくえをかたわらで眺めながら、このような言葉遊びを続けることで、自分たち自身はどこに向かって進んでいるのか、その目的もはっきりわからないまま、日々理由なき表象の記憶行為にふけっているわけです。「楽しくない無駄知識」「もうひとつのトリビアの泉」と化しているのが近代の学校制度であります。暗記&試験システムの上に築かれた明治以来の教育方法による評価と、「その学力結果」に基づいて子どもの進路選択の圧力とするというのは、いったいなんなのでしょうか。子どもはいったい「どんな力を身につけて」世間に出ていこうとしているのでしょうか。紙のテスト結果ばかりを----つまりこれが学力と言われているところのものですが----その場その場での短期的な評価基準ばかりを重視するのはなぜかということを批判しているわけです。設問に「考えさせる問題」を増やすことでその問題は対処できると答える人がいたとしたら、いま何が批判されているのかまったく理解していないということになります。そういう思考態度こそが日本の教育をダメにしてきたんだと言っているのですから。

高校生の世界学力テストという馬鹿げた学力テストを世界は行っています。一番最近のデータで上位3番までに入った国はどこだったでしょうか。1位フィンランド、2位中国、3位韓国です。イギリスもアメリカもフランスもドイツも入っておりません。このような結果は今回に限ったものではありません。 

しかしどうでしょう、国力の差----総合的な意味でということですが----でいうと、ペーパーテストで高得点を取った国々の国としての総合力は、とても上位3番までに入れるようなものではないでしょう。真の国力と学力テスト(ペーパーテスト)の結果は一致しているでしょうか。「現実に世界を動かす能力を持っている国々の潜在力はペーパーテスト上には現れていない」という厳然たる事実があることを人々はもっと深く受け止めるべきではないでしょうか。ちなみに日本は前回3位だったのに今回4位に転落したと言ってマスコミ中心に「学力低下が始まった」と大騒ぎしました。「高校生の国際学力比較テストと似たものを挙げよ」と言われたら、サッカーのユース選手権なんぞを例として挙げたいです。それらは両方とも高校生の年代の子どもたちが行うゲームなのであって、たとえばブラジルのユースチームが強いからと言って、ブラジルは総合的な力量を備えた先進国家のひとつと言えるでしょうか。われわれが深刻な問題と見なしている学力問題とはそのように、どこか点を取り合う競技スポーツ系のゲームと似たところがあるのです。

国力指標の逆転現象は何を意味しているのでしょうか。「学力テストで上位を取る能力」では「対応しきれない現実問題」が世界にはたくさんあるのだということです。そしてそのような「さまざまな現実問題」に対処できる人材を、教育問題においても日本同様に、あれこれ問題をかかえながらも、それでも「真に対処能力のある人材」を世の中に継続的に送り出すことのできる精神的土壌を持つ国々があるのだということです。

日本の教師が人格的にダメになってしまったのも、教育大学における教授内容や教員養成法も含め、国も地方自治体もそういう一面的な「学力主義」にますます寄りかかった法律運用をしてきた結果です。子どもたちのまわりにりっぱな人間を増やせば、それが回り道となって結果的に学力の向上に接続するとは考えません。すべてが形式主義です。

「えっ、学力が落ちたって、ならば勉強時間を増やせ、もっともっと詰め込め」----それは医療行為における対処療法のように、「薬の効き目が薄れたなら投薬量を増やせ」と言うような医師と同じです。教育の効果はもっと異なった回り道をするのです。社会が、教師の人格の力が子どもたちの知性を含めたさまざまな能力の発達に影響力を持っていると信じることができないなら、学校側も短期短期で結果がでるような安易な施策を今後もデモンストレーションとして行い続け、「ほら、対応策やってますでしょ」と文部科学省に紙面上で「はい、これこれのことを何時間ほどこしました」と報告書を提出するというようなアリバイ工作以上の振る舞いはできないでしょう。また指導を施す役所側たる文部科学省も、そのような「目に見える資料の提出」ばかりを仕事上の成果としています。ここにも形式主義がはびこっているからです。問題の根は深いのです。それは子どもたちのためではなく、行政側、教師側、教育委員会側の人間が、社会の側からの批判から身をかわし、当面の間しばしの安堵を得るための詐欺行為でしかありません。ここにもそれぞれの立場を守りたい人間の利己主義が忍び込んでいるのです。今のような教員の採用基準、あるいは採用後の育成方法では、教育委員会はけっして「教師としてふさわしいよい人材」を確保することもまた若い新人教師を、よい人間として無言の影響力を子どもたちの前で行使しうる教師として育てていくことはできないでしょう。すべてが形式主義に堕しており、人々がその形式主義を温存することを教育改革だと思い込んでいる限り、子どもたちの精神的受難は続かざるを得ません。昨今の続発する教師の不始末について、行政側、すなわち人事採用権をもった人々が、そのような道徳的な力の欠落した人物ばかりを教師として採用してきた責任、その「人間鑑定能力のなさ」について、彼らは批判を受けることがありません。彼らの「無能さ」もまた、社会から批判を受けるべきなのです。

カリキュラム、教科内容、教室での教授法、試験方法を含め、明治の学制導入以来、実はほとんどその形態が変化していないこの奇妙な日本の教育体系そのものをこそ見直すべきなんですよ。

今日本で起きていることは、子どもを「無意味感」でへとへとにさせて、それでも、むりやり、子どもがいま自分がやっていることの直接的な意味を考えることを当座そらせて、あの大戦争を経ても結局問い直されることのなかった、古びた明治以来の(当時の西洋式の)近代式教育システムに適応させようと奮闘する社会と子どもとの軋轢なんだということです。100年前の日本はまだ前時代から続く簡素な生活形態のなかで子どもたちも、大人の人格と大人の社会に信頼と敬意を感じて育つことができました。だからこそ子どもたちは大人たちの指導に従い、新しい西洋式の学校制度にも積極的になじんでいくことができたのです。個々人の意志力の発露はまだ一般的な開花をしてはいませんでしたが、それでも子どもたちは大人の統治する社会を敬意を持って見上げながら成長することができました。もしアンケートをとることが可能なら、当時の日本の子どもたちはいまの子どもたちよりずっとたくさんの子どもたちが「はやく大人になりたい。はやく大きくなって大人の社会の一員として加わりたい」と答えたことでしょう。いまや「見えざる世界」が変容を遂げています。人々はそこに目を向けようとはしません。現代の子どもたちは、すでに幼い時から自分の生きている社会に不信感を持って生きざるをえないようになっています。この100年で子どもの魂の状態も変化しました。画用紙の面上を覆っている色があるとします。それは子どもの魂の色を表します。100年前の子どももある魂の色を持っていました、その色が教育によって黄色く鮮やかにそしてほがらかに発色するように人々はある色を落としました。それは近代化に大きく役立ってくれました。そして100年後にも子どもがこの地上に生まれてきて、ある魂の色をしています。しかしそれはどこか100年前の子どもの魂の基本色と似ていません。そこに人々は100年前と同じような色素を加えようとしています。いま、その添加色は子どもの色をどう変えたでしょうか。100年前には明るく発色したものが、いまはどす黒く濁っています。

世に伯楽ありて、しかるのちに千里の馬あり、でしょう。

今の日本の子どもたちは、あの中国古典の雑説にある通りの、「千里の馬を駄馬にする奴隷人の手にかかった、へとへとにつかれきった馬」なんですよ。

(参考)雑説

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Renge/8328/stu/kanyu_zousetsu.htm

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