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ある西洋人の見た大東亜戦争

2001年9月11日のニューヨークのテロ事件直後、たくさんのテロ関連の書物が急に世間から注目を浴びる ようになったが、その書物群の中に、『テロリズム』という邦題名を持つ本がある。著者はブルース・ホフマンというイギリス人である。

この本が世界でどのくらい読まれたかは分からないが、英語圏は当然であるけれども、アジア地域においても日本以外の地域で翻訳紹介されているとすれば、この本は本来「テロリズム」について書 かれた本ではあるけれども、実はあのテロ事件を仲介役として、「日本の大東亜戦争」の意味を広 く人々に知らせる役割も担ってしまったのではないかと思われる。

日本人自身がブルース・ホフマン氏の言うようなことを現在の中国・韓国・北朝鮮に向かって主張 したとしたら、どんな状況が生じるだろうか? もちろん、われわれはその前例を知っている。だが、日本の戦争相手国に住む人物が、今このような発言をしても、アジアに住む人々は、誰もこの西洋人の発言に対して「われわれの心の痛みを無視した妄言だ。いますぐに撤回せよ」などとは言わないのである。

以下、ブルース・ホフマン氏によって世界の住人に再び示された「あの戦争の意味」あるいは「その解釈」について、その箇所を紹介する。


1942年2月15日、侵攻してきた日本軍がシンガポールを占領し、大英帝国は、帝国史上最悪の敗北を喫した。戦略的な価値はともかく、シンガポール陥落の真の意味を、当時の代表的な軍事戦略 家バジル・リデル・ハートはこう述べている。

「極東における西洋支配の輝かしい象徴であったシンガポール……1942年2月、そこを簡単に占領されたことで、アジアにおける大英帝国の、そしてヨーロッパの威光はこなごなになった。あとで奪 いかえしたが、その印象をぬぐいさることはできなかった。白人は、その魔術をくつがえされてしまい、支配力を失った。帝国も無敵ではないという認識が広まり、それに勇気づけられたアジア全土で、戦後、ヨーロッパの支配もしくは侵入に対する反乱が起きた。」

それどころか、その後数週間以内に、日本軍は、オランダ領東インド(インドネシア)およびビルマ(ミ ャンマー)も征服した。香港は、すでに前の年のクリスマスに降伏していたし、フランス領インドシナの 支配権は、日本軍が一年前に握っていた。そして、アメリカ軍が駐留していたフィリピンのコレヒドール島が、1942年5月、最終的に降伏したとき、日本の東南アジア征服----と、イギリス、フランス、 オランダ、そしてアメリカが当地で築いた帝国の破壊は----完了した。

 これらのできごとが長期的におよぼした影響ははかりしれなかった。ヨーロッパの支配国は無敵だと思いこんでいた現地の人々は、これ以降、以前の支配者をまったくちがった目で見るようになった。 巨大な大英帝国は決定的な一撃を受けたし、アメリカの占有する太平洋地域の平和および安全保 障協定もおなじく粉砕された。インドシナを蹂躙する日本軍にまったく歯の立たなかったフランスは、 ヴェトナム人が思い描いていた支配者としての威厳を大きく損ねた。インドネシアでは、日本はその 国の独立を約束し、まだ残っていたオランダへの忠誠心をうまく消し去った。戦前、ヨーロッパ列強は、アジア人は多様すぎて、彼ら自身では国を統治できないと主張していた。だが、日本が、自治を現地人の行政府にまかせ、名目上は独立させるという政策を取ったことで、列強の意見は一蹴された。反対に、現地人が抑留されたヨーロッパ人を支配し、下賤で骨の折れる作業をやらせた。だか ら、数年して戦争の流れが連合軍有利に変わっても、現地の人々が、ヨーロッパの帝国には二度と 支配されまいと決心したのも当然のことである。

独立と自決権を求めて声をあげたのは、衰退している植民地列強に統治されていたアジア人だけではなかった。列強の屈辱的な敗北はほかの人々の耳に刺激的に響き、ヨーロッパの----じっさいに は西洋の----権力と、強大な軍事力に対する神話に挑戦するものがあちこちで現れた。中東、アフ リカ、インド、地中海地域、北アフリカの原住民が、戦前の植民地体制に戻るのをおそれていらついていた。彼らは、自分でも気づかないうちに、第二次大戦初期に、民族独立と自決権を約束した連合軍の協定に期待していたのだ。1941年、アメリカがまだ参戦以前に,フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、ニューファンドランド島沖合の軍艦上でウィンストン・チャーチル英首相と会い、両国の戦後の目標を話しあった。その結果、大西洋憲章といわれる8項目からなる文書が作成された。歴史家トムソンによれば、憲章のおもな目的は、「西洋の大義の正しさをもって、敵側の考えを大きく動かす」ことにあったのだ。だが、その影響は、高慢な目標を遠く越えたところにおよんだのである。

大西洋憲章の第一項で、両国の戦争の目的は「富や勢力、領土その他」の取得ではないと、わざわざ確認している。ヨーロッパ列強にとって、将来的な問題の種となったのは、第二、第三項だ。第二項では、イギリスもアメリカも「関係する人々の自由な意志に反する領土の変更を……」望まないと はっきりうたい、第三項で、両国は、「すべての人々が、自分たちの政体を選ぶ権利を尊重する」とさ らに誓っている。これらの原則は、1942年1月1日にイギリスとアメリカが合意した「連合国宣言」に まとめられ、その後、ドイツと戦争状態にあったすべての政府が合意した。これで、彼らは、果たすつもりのなかった約束を果たさなければならなくなったのである。憲章調印一周年の記念日に、チャーチルは、最初の合意内容を修正し、制限をもうけようとした。憲章が適用されるのはアジアかアフリカ だけで、インドとパレスチナは関係ない。しかも、ドイツ、イタリア、日本に征服された国にかぎるというものだった。だが、すでに手遅れだった。植民地支配をつづけたいヨーロッパの植民地列強によって都合よく再定義された憲章には、だれも耳を貸さなかった。(ブルース・ホフマン『テロリズム』P59-P62)

前回のエントリー「大東亜戦争とは何だったのか」の内容とも関連させて読んでもらえれば幸いである。

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