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操練会議

このblogは、HP「物部守屋の末裔 勝海舟の研究」の付設ページとして設けられました。
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必要なのは、教育の再生ではない、変容である

教育再生会議が「教育の再生」のために出した提言をみて、「これが本当に〈有識者たち〉が真剣に考えた結論なのだろうか」と愕然としました。昨今行政の税金の無駄遣い問題がマスコミでうるさいですが、この会議にかけた税金も無駄遣いでしかなかったと国民の多くが思ったことでしょう。

「自分たち自身の思考方法の変更」をせまるような根本的な自己批判は皆無でした。10年たっても、子どもの問題行動は減らないでしょう。

教育観と教育行為が「自動化」「ロボット化」してしまっていることこそが最大の問題なんだということが自覚できない人びとによって、「そんな結論なら小学校の学級会でも子どもが言うことができる」と言いたくなるような結論しか出てこない状況を見ると、未来の日本人の精神生活の荒廃はさらにおそるべきものになるに違いないという予感に襲われます。

私の問題意識は、現在「大声で」教育問題について語る人びとの問題意識と重なるところがありません。そのような人びとと「何が問題なのか」という意識感覚がズレてしまっている以上、今後も「大声で語られる演説会に集まっている人びとの後頭部」を眺めながら、ほそぼそと「そんな思考態度でいいのか」と彼らに向かって後ろから小さな声で話し続けるしかありません。

P.S.

前回のエントリー国家の教育制度下のソフィスト的な処世術問題に補足記述を追加いたしました。追補版を未読の方はどうぞ。他の教育関連記事も合わせてどうぞ。

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国家の教育制度下のソフィスト的な処世術問題

外面ばかりを見て、同じようにそこ(外面)から大問題とみなしている事象の原因を探す。どこの国も振る舞いは似たようなもんです。教育基本法改正の本質は日教組思想とそれに呼応する教師たちの学内学外での常軌を逸した「政治的振る舞い」を掣肘するための法律であって----ですから、それはもともと教育の政治利用という異常化した教育現場状況に対して注入された濃縮された劇薬であり、本来はそのような「愛着」に関わるような「精神的なもの」は、人々が普段そうとは意識化せずに呼吸している空気のように、穏やかに穏当なレベルにまで蒸気化されて、人々の内面にのみ生きている現実的感覚として保持されるべき体のものです。ですから、「新条文」は「教師という大人たち」の腕めがけてニードルで注入される薬であって、実はまったく子どもたちへ向けてのものではありません。もともと教師たちが、常識的感覚を持ち、子どもたちの前で彼らの模範たりうるような良き人間として振る舞えてきたなら「あえて条文化する必要のない言葉」だったのですから----、ですから、条文化によって「その愛着精神が子供に内面化される」などというような都合のいいことにはならないでしょう。そもそも教師がはっきりと子どもたちの前で明言しなくとも、その教師の普段の言動から「彼の社会観国家観が穏当なものであるかどうか」を子どもたちは感じ取るものだからです。実際には、「言葉そのもの」からではなく、子どもたちに尊敬されている教師の人格が回り道をして、子どもたちを道徳的にするのですから。むしろ知的で利口で----ということは学習上の模倣能力の高い----教師の覚えめでたい生徒たちの中からこそ、教師の「政治的な言葉そのもの」と自己同一化する、将来の左翼人候補が生み出されてきたのでした。戦後、左翼思想家に変貌したたくさんの学校教師たちから「そのような利口な子ども」がたくさん生み出されました。そしてそのような「偏差値の高い利口な子ども」が成人したのちに、今度はそのような教師たちの「精神の振る舞い」を「模倣」し、社会という共同体を害してきたという「事実」を再度みなさんも確認されるべきです。「一面的に学力のある人間」が児童生徒の教師になり、あるいは大学の教師になり、社会を害してきたのだという事実をです。

法律の「字面」を変えるだけで、子供の精神が変わるなどと本気で思っているなら、あまりにも安易な考え方です。その時々の人々の「社会思想」というのは、それが政治化して教育現場にまで進入し、人々をひっぱろうとしはじめると、はなはだ迷惑なもんです。「国あるいは行政機構に自分の子供の教育の基本理念を任せる(まる投げする)ことは正しいことか」という発想が出てくることがないのが、いまだに人々が意識的に近づこうとすることのない「本当の教育問題」です。国民によって国家に「まる投げ」されているものとは、法律に基づいた学校制度や予定調和的な解答能力を試す現在のような試験制度を含めた、すでに慣習化してしまっている人々の教育に対する思考態度です。「出来上がったルール」のなかで「いかにうまく立ち回るか」というのを教えるのが、予備校、学習塾を始めとする民間の教育施設です(公文や進研ゼミのテレビCMを思い出してください)。現在のような制度と体制と人々の「勉強とはそのようなものだという教育観」が厳然として下支えをしてくれているおかげで、そのような「産業」は成立することができるのですから。近代化以後、ある時間を経て、結果的には西洋の近代教育思想から「システムとしてのみ抽出され」----この極東地域の人びとによれば、彼らはそれを、なんと「教育」と呼んでいるのですが、----日本人の教育感覚は、いまや西洋の「それ」とは----また近代化前の江戸時代の日本の親たちの、自分の子どもへの「教育配慮感覚」とも----まったく別物に変貌を遂げました。現代日本人は(また現代中国人も現代韓国人も)近代式教育を発明した本来の西洋の人びとの振る舞い方とはまるで異なった、実は皆自分が何をやっているのか、皆目見当もつかないような、奇妙な「解答技術」の「洗練化」へと、方向をシフトして現在に至っているのです。欧米諸国には日本や韓国や中国のような、受験産業は存在しないということは皆さんもご存じでしょう。したがって、たえずある種の思想系の人びとから経済的あるいはそれに基づく道徳的悪態をつかれているあのアメリカも、その種の人びとが恐れていた金融問題のようには、つまり「新しい市場」を求めての「外資の日本への受験産業の参入」なんぞというような振る舞いには、ついぞ出ることもないでしょう。さらに言えば西洋・東洋と言っても、アジア地域のなかでも、「この奇妙な教育感覚」は、かつて儒教・漢字文化を共有していた極東人たちが、その振る舞いの奇矯さにおいて、他のアジア諸国と比べても突出しているということも、皆さん、よくよくかみしめてみるべき事実です。

「学力とは何か」という問いかけが、いっこうに出てこないまま、奇妙な学力論争が引き続き行われています。彼らが憂えている「学力低下」とは結局「受験能力の低下」ということでしょう。世間が学力低下を憂えているのを耳にしてひとしきり他人の前で学力問題を憂えてみせる肝心の親の方に「自分の子どもには学習によって何ができるようになり、何を覚えてもらいたいですか」「そのような知識や能力は、どんな年齢の時期に、どのような方法で身につけさせたいですか」とたずねてみましょう。彼らには何も答えられません。せいぜい「そうですねえ、社会生活で必要な漢字が読めて、生活で困らない計算能力を身につけてもらって、それから、ええっとですね.....」、それ以上は答えることができないでしょう。現代の親は「そんなこと」を(何を、いつ、どのように教えるのか」ということに関して)、体系的に系統だてて真剣に考えたことは、実は一度もないからです。「どれくらいたくさん覚えられたか」を競うことが「テスト」なら、「ポケモンの数百匹のキャラ」を覚えさせ、「説明する能力」があるかでも、子どもの「学習能力の範囲や限度」は「確認できる」でしょう。なぜそうしないのです。

結局、保護者たちは(もちろん教師も)、示される数値には関心を見せても、行われている教育の中身自体には関心がありません。教師の方と言えば、「何をどのように教えればよいか」について、国から示された通りに、かつて自分たちが児童生徒だった頃の、自分たちの先生の振る舞いを思い出して、「その振る舞い方」を模倣して教育行為だとみなしているのです。確かに見た目には「教師のように」見えます。教師は「今この時期(年齢時)に、なぜこの知識(解法)を子どもが身につける必要があるか」について「その根拠を本気で感じる」ことはありません。「そんなこと」は、彼らも大学で習ったことがないからです。近代教育現場には、本当の「子どもの成長の衛生学と心理学」が存在しないからです。「子どもについての専門家」であるべき人びとが実は、「子どもの成長の法則」について何も知らずに教育学部を出、他の大学で教職過程の単位をとって卒業していきます。大学の先生方も、だれも教えてくれません。(もちろん知らないからです。)

「ある具体的目的」のために、「その教育行為」が、「本当に必要な知識・能力」を子どもたちにもたらすなら、テストをして番数を出すことばかりに関心を見せるのではなく、「なぜお前はそんなに馬鹿なんだ」と子どもをなじる前に、「国民から委託された教育行為を貫徹する」ことこそが第一に教師が心の土台にすえておくべき心構えでしょう。自動車教習所の指導教官たちは、お金を払ってやってくる受講者に、彼ら教官たちが必要だと考えている技能と知識の水準をちゃんと受講者たちにクリアさせて自動車学校を卒業させているではないですか。しかし、義務教育がやってきたことはそれとはまったく別のことです。 行政側は、国民に税金を払わせて、彼らの子どもを法律の名もとに強制的に一箇所に集め、まるでひよこの選別をするように、選別システムにかけてきました。そして、選別するときに利用するものが、自分自身の「具体的な身体活動」を通して「生を実感して生きているはず」の、「自分がこれからそこに加わることになるはずの大人たちの生きる現実の世界」を「敬意を持って理解したい」と思っている子どもたちの魂の要求とはまるで関連性を感じさせてくれない「無意味な表象」に満ちた紙の上で踊っているさまざまな問題群です。

しかし「現在のような教育システム」では、現代の教師たちは、子どもたちのそのような潜在的な要求に答えることのできるようなカリキュラムも教授法も持ち合わせてはいないのです。そして旧来の方法を踏襲して、ただ規定時間授業をして規定通りのペーパーテストを形式的に繰り返します。そして成績が悪いと教師は嘆きます。けれどもそのような教師たちが、「できないのはお前が勉強しないからだ」、といって、それ以上学力不足の子どもに介入しないのは、本当は教師の側の責任逃れであり、怠慢ではないでしょうか。しかし、教師がそのように振る舞えないのは、教師の側に「動機」が欠落しているからです。医者は「治す」ために「テスト(検査)」をしますが、それはそのテスト(データ)結果をもとに患者に「どういう対処をすればよいか」を見つける手がかりにするためです。しかし「現在の〈義務教育制度〉下における検査(テスト)の扱い」は「それとはまったく異なった目的」のために使用されます(小学校教育は基本的に定期テスト式の順位を出しませんからまだ医者的なアプローチを教師たちはおこなっています。それが中学へ上がると変化します)。中学になって行われるようになる現在の定期テスト方式は、「未来の高校進学振り分けの資料とする目的で子どもを分けるためにおこなっている」のですから、「差が出ないテスト」ではいけないからです。差が出ると教師はむしろ安心します。けれどもその教師はなぜいまこういう授業を行っているのか、その根拠を示すことができません。教えるべきことは国家から「自動的」に示され、教員採用試験に通って教師になった人びとは、それを「履行すればいい」のですから。今、教師が行っていることは、彼らにとって、すべて「前々から受け継がれた自動行為の反復」にすぎません。教育行政の側も「本質的なこと」は何ひとつ示せません。ものすごい受験競争を経て、官僚になり、教育行政を立案している人びとも「〈教える根拠〉という習ったことのないことは分からない」のです。彼らが官僚採用試験に合格したのは、「習ったことを正確に反復できることを、採用試験時に試験官に対してみごとに披瀝できたから」です。教師の側が「自らの精神活動それ自体の内部」から「その教育行為の根拠」をはっきりと把握できていたなら、「今この子にこのような知識と能力を身につけさせることに失敗したら、私はこの子の未来をだいなしにすることになるのだ」と感じ、身震いさえするはずです。しかし、現在の日本の教育行政も「根拠を示すこと」ができません。「そのような精神がある」ということを、誰も意識したことがないからです。したがって教育行政担当者にも教師の側にも、自分たちがこれから子どもに行おうとしていることを前にして、そのことによってこれから子どもが担わされることになる運命に思いをはせ、身震いし、「責任感」が内面からおのずと沸きだすというようなこともないのです。

ですから、国家国民総ぐるみで、実はそのような「ソフィスト的な処世術」----外面では昨今の子どもたちの不徳を嘆きながら、実際には内面構造的に子どもたちに強いている思考態度とは、そのように「きわめて子どもの利己主義に訴えかける傾向を有する精神」です----を子どもたちが身につけられるかどうかの「競争」を行っているに過ぎないのです。教育思想の現状維持、あるいは教育システムと人々の教育観の外枠部分(基本構造)はまったく変化しないまま、明治の学制導入以来ずっと続いてきた、そのような近代的教育体制への懐古趣味から、そのような現状維持的な教育感覚を持った大人たちの、自覚できない精神構造が、結局子どもを不徳の荒野へと追い込んでいるのではないでしょうか。子ども時代からずっと「受験者としての利口者で通ってきた人々」こそが、「利口者ゆえに紙の上の試験で比較的楽をして社会人化した体験を持っているゆえ」に、自分たちが経てきてクリアしてきた教育システムの温存派になっているという状況もあるでしょう。自分が他の仲間に比して楽々とクリアしてきた成功体験が、かえって教育状況全体の見通し感覚をゆがませているということもあるでしょう。そのような人々の口から出てくる言葉によって支持されている今までの教育体制は、子どもたちを決して「精神化する」ことはないでしょう。親や教師、あるいは世間一般の大人の口から出る道徳的な言葉が、子どもたちの身体に入って内面化され、「道徳的に血肉化する」ことができなくなった時代に突入しているということが彼らには感受できないのですから。本質は説教として子どもたちの面前で繰り出される言葉にあるのではなく----法律上の条文の明文化ではさらになく----現代の、直接間接を問わず、子どもの保護者として生きているはずの大人たちの、教育本能の衰弱化にあるのですから。

近代初期に西欧世界で導入され、日本も国家の近代化にあたってそれをまね、義務教育という国家主導の公教育制度の存在そのものを、制度導入以後、その存立の仕方を自動車のギア・ポジションが上がっていくようにさらに高度に自動化するままにほっておき、一度も現代のように「そのような教育の仕方によって硬化症化していく精神のあり方そのもの」を疑ってみることのなかった精神、近代精神の出現とともに諸国民の間で「そうであるべきもの」として共有されるようになっていき、現代にまで受け継がれることになった「国家によって与えられ認証され管理される教育こそ教育」という「私たちの自動化した思考態度」こそが問題なのではないかと、疑ってみる機会が今後あるかどうかが、ほかならぬ「近代発の教育構造によって腐敗化していく人間精神」の救出につながっていくだろうと思いますよ。

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人は中学高校から大学へ、利己主義を学びにいく

現代日本の教育体制の現実を見れば、現在の学校体制こそ、子どもの無意識に「利己的に生きるように」とささやきかけている最大の精神圧力なのではないかと思います。教科書という「書き物」を使って実際の教育現場で「建て前」のようにして言われてきたこととはウラハラに----なぜなら現代の学問的言説はいつも人々の精神生活の表層にとどまっているにすぎないのですから。それは薄くバラまかれた表土にすぎません。ネットの登場によって左傾的な言説の権威の一角が崩壊しましたが、それは社会を覆っていた言説が実は人々の精神生活の深部には届いていなかったことの現れでもあります。旧来の媒体を権威として受け入れていたたくさんの人々が「権威とみなす者たちの言葉」を「学習」したことによって、「当然そう語るべきものだ」と思い込んでいたにすぎません。しかし、こういう態度こそが近代の教育システムが内包している精神です----現在ではますます、「利己主義のススメ」を子どもの無意識に注ぎ込んでいるのが、今の日本の学校進学制度と言えるんじゃないでしょうか。子どもは、中学高校から大学へかけて、「教科書によって学ばされた内容」によってではなく、「教育体制そのもの」がもつ奇妙な精神的圧力----これこそが「現実的な教育力」となって、「そういう人間になれ」と親や子や教師やかれらを取り囲む社会をつき動かしているモノです----によって体験的に利己主義を学んで成長していくのではないのですか。これこそが現代社会で「実際に起きていた事」でしょう。現代の学校体制そのものが、人々が精神荒廃へ至るための注入口となっているという指摘について、私が言いたいことを、どうも現在までのところ、まだうまく言葉で表現しきれないとは思うんですが、「なんかその感覚分かるような気がする」と感じてくれる人は必ずいると思います。

分けるためにテストする

もちろん学習塾が繁盛しているのは、現代の日本の教育システムが、医者たちのように代価をもらって責任をもって悪くなっている部位を常態に復帰させるというような思考態度ではなく、国民から子ども預かって一箇所に集めて同じ教育をほどこし、試験で選別をほどこして、その中から国家経営に役に立つ人物をチョイスして、日本の近代化に貢献させる、という明治以来の教育の基本思想を、今も無自覚に踏襲しているからです。確かに、かつての制度には光の面もありました。かつては貧しい農家の子がまさにそのようなシステムによって拾い上げられ、公費によって教育を受けることができ、出世して軍事・行政等の国家事業に参画しうる道がありましたが、戦後、状況は一変しました。それは私が「帝国主義は終わっている」という当ブログ記事の中でも示した通り、幕末明治期の日本人が「そのこと」に関して本当に駆り立てられざるをえなかった外部状況が大変貌を遂げ、現代日本人はもはや幕末明治期以来の日本人と同様な動機を教育行為の内部で「実感する」ことがなくなったからです。そういうわけで、いまは形骸化した教育システムが「個人的な野望の実現」の維持のために利用され、知的であることを密かに誇っている人々の「精神生活の頽廃」を後ろから肯定する機能を果たしているだけになりました。国民は、現在のような教育システムを維持し続けることで、そのような人々の頽廃した隠れた利己主義を支えるために税金を払い続けなければなりません。

皮肉なことに、学力をつけるということに関して、医者のような役割をしているのは、むしろ学習塾の方です。現在の学校システムは試験による選別システムを放棄するわけにはいきません。学力数値とは、その選別指標です。学校はその「選別数値」を社会に対して示さなければなりません。社会はそれを「利用」します。ですから、親の側は少しでも自分の子どもが優位な立場で試験システムをクリアできるようにと、「成績アップ」を宣伝文句にしている学習塾に子どもを入れて理解不足の補いと受験テクニックの伝授をそのような業界に依頼するわけです。金をもらって請け負った以上、業者はたとえそれが「建て前」であれ、個々の依頼者の「学力」が向上するようにと努力します。学習塾が繁盛するのは、日本の教育システムが学習塾を繁栄させるようなシステムで成り立っているからです。

しかし個々の学校教師や学習塾講師に「なぜこの時期にこの知識を身につける必要があるのか。その理論的根拠をあなたは知っているのか」と尋ねてみてください。実は誰も答えられません。「それを今のこの学年でなぜ覚えさせ、身につけさせる必要があるのか」ということに関しては親の側はまるで無関心です。教師もその「深い理由」は知りません。ですから、たとえば車の運転免許試験では「最低限これこれの知識と運転能力を持たせなければならない」という明確な指導基準があるようには、学校教育は行われません。それに、どのような子どもにも〈平等〉に教室の椅子に一日の一定時間座れる保証は法律で行っても、これこれの知識をこれこれの根拠によって身につけさせ、皆を同じような学力を持つ子どもとして送り出すという保証は請け負ってはおりません。現在のような集団指導体制でひとりの教師がそこまで請け負うことはとても無理な相談です。しかも、それを可能にできる体制を整えたとしても、それでは「人材チョイスのために教育システムを利用するという近代前期に導入された選別システム」が機能しなくなります。「最終的な学力結果は皆同じであってはいけない」のです。意図的に差をつけてこその選別システムです。しかし差をつけるためにつかう「学力指標」の中身については、その知識や学力が現実の問題に対してどれほど有効性を発揮しているか、はなはだあやしい代物です。子どもはそこでやっていることの意味が分からず無意味感でくたくたになりますが、だれも子どものそのような「本能的な疑念」にちゃんと答えることができません。ある意味、皆眠り込んでいるからです。

国民は税金を払わされて子どもを国家の提供する教育システムに送り出しますが、市場価値のある野菜や果物がベルトコンベア上で選別されるように、実は選別されているにすぎません。明治に学校制度が始まったとき、農村の親たちは「オレの子どもは学校なんぞにはやらん」と反抗しました。「働き手はいなくなるし、それに子どもに下手に学問をやらせると理屈ばかり達者な役立たずになる」と彼らは答えました。それはある意味彼らの「本能」から出てきた言葉でしょう。しかしそのような親たちも近代化の流れを受け入れざるを得ませんでした。今では「オレの子どもは学校教育なんかに任せられん、自分流に教育する」などと反抗する親はいません。近代以前西洋では、貴族階級の良家の子どもは家庭教師で教育されていました。そこには家庭教師による試験はあっても、その結果は選別のために利用されることはありませんでした。口頭によるものであれ、記述式によるものであれ、彼らの行う試験は「問診」あるいは「検診」のようなものなのであって、その結果をもとに各家庭教師は対処をしていただけです。

いまの国家の教育システムは、国民が税金を差し出しても、医者のようには子どもに対処してくれません。形や質の悪い果物や野菜が先へ進めずに廃棄処分になるように、処理していきます。廃棄をのがれようと、金銭に余裕のある家庭は自分の子どもに学習塾というカンフル剤を打ちます。そのように「現代日本」の教育システムというのは、ある意味非情なシステムです。 

そして30年前は学習塾の存在に大反対していた公教育の教師たちも、30年後の今は自分の子どもを「悩める親」として密かに学習塾に送り出しています。自分の子どもを学習塾に送り出さざるを得ない彼ら教師たちの内面に、一方で一種無念な感じはあってもどうにもなりません。彼らも「自分の子ども」に「学力」を付けさせるためには、学習塾に金を払わざるをえない状況に立たされているからです。どのようにしても差を生んで選別するシステムは磐石なので、たとい教師側の努力で掛け算できない子に力を付けさせても、それ以前にできるようになっている子も同じように教育を受けているのですから、「差を維持したまま」先へ進みます。

そして「差が表面上に現れない」と教師たちは進路指導できません。現代の教育はどれほど建て前で教育の機会均等を叫んでも、国民の子どもたちを確信犯的に選別システムにかかるように強いていることに変わりはありません。そしてその処置がますます大規模に機械的に行われるようになったのが、近代教育システムの生みの親たる西洋諸国ではなく、それを後になって受け入れたアジアの国々なのです。ここにも「形式」だけが受け入れられて、それがさらに奇妙な「精錬」を受けているにもかかわらず、それを「近代思想の応用」とみなしている人々の迂闊さが現れているのです。それこそ「ハイパー西洋主義」なのですが、彼らはそれを「日本的」といって自慢ばかりするようです。

今の子どもは本当はゆとりなんて持ってない

「ゆとり教育」批判、とくに右の側からの批判が多いですが、だいたいこれらの人々は「国家指導体制主義者」ですから、なんでも「国から国民へ」という流れで行えば、うまくいくと思っています。そういう発想を究極的に押し進めたのが、実は近代の共産主義思想でした。国家主義者が共産主義者に似ているのは、国民の精神生活を、すべて国家中心で考えるという、近代以前にはなかった、まさに近代の初期を破壊と闘争の世紀にした「近代思想」にいまだにどっぷりとつかっているからです。近代になって登場した国家主導の義務教育体制というのは、実は非常に社会主義体制的な性格を持っているということに人々は気がつきません。国家が管理する教育体制をめぐる左右の対決とは、そういった本質-国家主義者どうしの喧嘩でもあります。だから、よくよく注意して聞いていると、右側から教育批判をする人の中には、共産主義的な国家主義から導き出された教育思想とよく似たことを言う人がたくさんいることが分かります。彼らは教育問題では中国や北朝鮮の国家指導者たちと大変に意気投合できるはずです。

学校の授業時間数は若干減りました。ですが子どもたちは学校から自宅へ帰ったら、みんなで広場に集まって「勉強もせずに遊んでいる」でしょうか。そんな30年前なら当たり前だった風景はどこにもありません。では子どもたちは「どこに消えてしまった」のでしょうか。「学習塾」です。そして経済的に余力のある家庭の親は、自分の子どもを学校から帰宅させても、ほってはおきません。どうぞ調べてみてください。そのような子どもは学習塾以外にも別種の習い事に出かけています。1週間のすべてが何らかの学校外活動で埋まっている子どもがどれほどいるか、「学校の授業時間が減った」と批判する人々はちゃんと理解しているのでしょうか。

今の40代以上の年齢の人は思い出してください。すでに30年前にも学習塾はありましたが、その当時の習い事といえば、まず人々が思いつくのは書道塾とそろばん塾でした。人々はそれらを「習い事」と呼んでいました。(そのほか芸術系ではピアノ教室、身体系では柔道・剣道・空手・合気道の道場などに通う子どもも若干周囲にいましたね。)私が中学生のころには、もちろんまわりに学習塾に通っている子どももいましたが、全体的な数としては多くはありませんでした。それは都会を別にすれば、どんな地方都市も似たようなものだったでしょう。もちろん東京をはじめとした大都会の子どもをめぐる環境もいまとはずいぶん異なった「ゆるい環境」だったに違いありません。いったい30年前の子どもの「総実質勉強時間」と今の子どもの「総実質勉強時間」の差はどのくらいでしょうか。学校から帰ると、空き地なんぞに飛び出して、いまの子どもたちのように同学年同士ではなく、いろいろな学年の子どもがひとつに集まってワイワイ遊んでいた子どもたちの「総実質勉強時間」というものはどれくらいだったのでしょうか。 

現代の子どもたちが遊び呆けているなどというのは、まったく実情を知らない人々の意見です。本当にそうだったのなら、私も子どもたちはもっと勉強すべきだと言うことに躊躇しないでしょう。しかし今本当に起きていることは、30年前の子どもにはなかった事態です。すなわち、「子どもの生活時間(精神生活)」の「大人の側からの徹底的な拘束と管理」です。

30年前の子どもは学校から帰ると、現代のような強度な大人の側からの管理を受けませんでした。小学生の時期は特にそうです。現代の親は30年前の親よりもたくさんの子どもの生活時間管理を行うように実はなっています。ただそれは、「お金を払って子どもの生活時間を別の施設管理者に預ける」という方法をとっています。子どもと「精神的に接する時間」というのは、30年前に比して、逆に減っています。もはや30年前の家族の日常風景のように「毎日家族全員で夕食をとる」などという習慣を維持できている家庭は少数派になっているのではないでしょうか。しかも離婚家庭の増加で、学校の教師は離婚経験者の親を持つ児童生徒をたくさんかかえています。現代の日本には一つのクラスに両親の離婚経験をした子どもがたくさんいることも普通の状態になっています。教師はそのことも理解して子どもに接していかなければなりません。

どうして、子どもの教育に関して----子どもの「精神生活」を取り巻く環境の激変に関して----「30年前とは変化している現実」をちゃんと「直視」して、「新しい状況から新しく考え直す」ということができないのでしょうか。現代の教育問題を左右の政治対決として語ろうとするものは、事態をまったく見誤っているのです。単に学校の授業時間数を増やせば学力問題が解決する、というのは短絡でしかありません。問題は「子どもの学力問題」ではなく「子どもの精神生活問題」なんだということが分からない限り、彼らは本質的に国家主義者として、「子どもの精神生活を荒らす敵」として振る舞う道を今後も進むことになるのでしょう。ならば、私は子どもの側についてそのような「国家主義者たち」と戦いたいと思いますよ。

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