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操練会議

このblogは、HP「物部守屋の末裔 勝海舟の研究」の付設ページとして設けられました。
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彼らはそれで何がしたいのか

「彼ら」が言うところの「教育再生」とはそもそもなんだろう。私には結局のところ、「明治以来の〈教育観〉維持会議」「明治以来の〈教育観〉維持機構」にしか思えない。

一日3食食べ、食卓に四つ足の肉を並べる習慣は、昔の日本にはなかった習慣だ(もちろん肉食については仏教伝来以前の日本はまた異なった世界だったようだが)。比喩としていえば、西欧システムの教育体制が導入されたということは、西洋の思想の影響を受けて食習慣が変わり、「一日3食食べるのがよいと思われるようになったシステム」に変化したということだ(一日3食方式は江戸期からだということは分かった上での比喩である)。日本人は、西洋産の自然科学という新しい食い物も食うようになった。そのことによって日本人は唯物論も同時に受け入れた。その後1世紀以上の時が過ぎた。そして現代、「日本の子どもたちがおかしい」という話になった。だが彼らは「学力とは何か」という具体的説明もせずに、「明治以来の一日3食システム」という「外枠」は「踏襲」したまま、「食っている量」が減ったから「食わせる量を増やせ」と言っている。「そんな話」を「再生」などとなぜぬけぬけと言えるのか。再生ではなく、ただの「分量調整」ではないのか。言ってみれば逆ダイエット提言である。彼らの言うことが本当に実施されたとしても「教育体制の本質」は以前と少しも変わらない。そして彼らは「教育思想」「教育観」という「大枠」には何ひとつ手を付けようとしない。「教育観は明治以来の西洋式のままでいい」と、そう思っているのだろう。しかし「そういう彼らの思想」こそがまず変わるべきものなのではないのか。

そして罰則規定である。あすこで文部科学省が「やってもよい」とお墨付きをあたえた罰則なら、30年40年前に「普通に行われていたこと」ではないか。彼らは「すでにずっと行われてきた教師の振る舞い」を「ただ追認しただけ」で「再生」という言葉を吐くつもりだろうか。

韓国映画に『マイ・ボス マイ・ヒーロー』という映画があるのをご存じだろうか。韓国の高校教師がとにかく高校生をなぐりまくっていた。「ああ、これってかつての日本の高校と同じだよな」と思って気分が悪くなった。韓国の教育システムは、戦前の日本の統治システム導入とともに、教育システムもまた「そのまま日本から持ち込まれたもの」である。『冬のソナタ』でヨンさまが学生服を着ている姿をみて、「なんでコイツ日本の学生服を着てるんじゃー」とブッ飛んだ方もいるはずである。

韓国の左翼運動に「思想的土台」を与えたのも日本である。彼らは、日本統治時代に身につけた学習体験によって、日本語で「日本の左翼本」----「世界をどのように感じ眺めるべきか」ということが煽動的に書かれた書物----を読むことができるようになっていた。「恨の文化」なんぞ幻影である。彼らに「今の感情をもたらしたもの」は、彼らにとっては「生まれたての近代精神」そのものである。「われわれは国民である」という近代人としての自覚感覚である。その感覚の上に、左側から注入された帝国主義史観で近代の極東史を眺めると出てくる「情念」に、「恨」などというニセのレッテルをかぶせて自己韜晦しているのである。現在彼らが「恨」といって日本を道徳的に責めようとしている振る舞いは「左翼思想」の裏張りをされて巧妙に「日本経由」で半島にもたらされたものである。江戸時代、朝鮮は徳川幕府の将軍の代替りごとに、挨拶にやってきていた。彼らはその当時別段「歴史的恨み」を心の底に抱いて将軍に挨拶していたわけではない。

「歴史論争」などという、「戦後的近代勉強馬鹿たち」が----この点では右も左もない。近代的学校体制は罪深いものである----喜々として口角泡を飛ばして興じている振る舞いもまた、近代以前には極東にはなかった振る舞いである。近代といっても、戦前も「近代」である。しかし戦前、世界には「こんなふうに学問めかして歴史論争にうち興じる多数の勉強馬鹿的庶民なんぞいなかった」のである。「これらの人びと」は「戦後」に誕生した「新しい人種」である。「われわれ自身の振る舞い方」そのものが「戦後的な新しい現象」なのだということを、ひとまず理解した上で、右も左も相手の顔に汚いつばきも飛ばしてみるといいのである。

韓国の教育事情が日本に似ているのは日本の教育システムをそのまま独立後も踏襲したからである。日本統治が彼らの教育体制の土台になったのである。韓国の場合はさらに日本式をハイパー化しており、中国・韓国と高校生の国際学力検査トップ3のうちの二つに食い込んでいるが、そんな利口なハズの彼らの「世界政治における国民の精神生活の発展途上性」ぶりを見ると「そういうタイプの学力」なんぞ何の役にもたたないということがよくわかるハズではないか。

韓国の大統領ノ・ムヒョンが西洋の首脳たちの前で(アメリカ大統領やオーストラリア首相らの前で)歴史問題を持ち出し、ブッシュさんから「(そう熱くならずに)日本とじっくり話し合ってみたらどうか」諭されたら「でも自分が高校時代に習った教科書には(日本人が主張するようなことは)書いていないんです」と答えて白人首脳たちの苦笑を誘ったという「象徴的な話」が伝わっている。(世界高校生学力比較テストで日本を抜いて上位3位以内に入った韓国高校生と中国高校生。彼らの現実(真の精神生活)は哀れである。もちろん日本人の「勉強馬鹿ぶり」も笑えない事実である。日本を含め極東の数国は、奇妙な教育体制によって「勉強馬鹿」を量産している国々である。彼らは「国が与える教科書」を皆信じてエリートになった人びとである。そういう人びとを作るために生み出されたのが西洋の近代式教育体制のもともとの思想の土台だった。帝国主義時代の西欧近代諸国家では、そのような体制維持のために働く利口な官僚向きな国民が必要だったからである。だがそのような近代システムの生みの親の彼らはそういう思考方法からはすでに脱している。しかし遅れて近代化を遂げたアジアの諸国家、最近では特に中国や北朝鮮の例が顕著だが、彼らの国の官僚たちは「その利口さ」を国民の精神生活の真の発展のためには使わない。いや「魂の発展」がまるで追いついていないので、そもそも「正しく使う能力(精神力)」がないのだ。かえってその利口さを国民の抑圧に使うばかりである。)

ひるがえってこの日本において、「本当の教育現場」を知らずに現在大声で教育提言をしている彼らは、「ただ自分が子どもの頃どんなふうに教育されたかという思い出を語っているだけ」なのだ。自分が子どもの頃体験したやり方を「今の子どももすればいい」とただ安易な提言をしているだけなのである。

これが「明治以来の教育システム」によって教育され続け、ついに学者と呼ばれるようになった人びとの出した結論なのである。私には、「あまりにも無残な姿」だった。学者なら「本質論」から入るべきだったのに、何一つ彼らの口から本質論が出てこない。

「今の子どもの姿」ではなく、「教育提言をする彼ら」の姿にこそ、「明治以来、現在まで続いてきた西洋近代初期の教育思想導入から独特の日本式発展をとげた近代教育の仕方」が「まったく失敗だった」という「結論」を見るべきなのである(これは先に紹介した兵頭二十八氏も言っていたことだった)。彼らは心がゆがんでいるのは「今の子どもだけ」で「自分らの心根はよい。自分は受験競争を突破してきた頭のいい人物だ」と思っているのだろうか、「私には思考態度において反省する点はない。だから自分たちには今の教育のゆがみを〈正す能力〉がある」と。

最近、中学受験熱が東京で高まっているというニュースがながれた。彼らマスコミ人たちは、3、40年前にはなかった学習塾の隆盛をなんとも思っていないようだし、むしろ、密かな希望としては、普通の小学校という公教育の場所では「受験対策」なんぞしてくれないから、自分たちの子どもも「そのような進学塾」でどしどし鍛えて「お受験」に受かってもらいたいと思っているのではないかと私は密かに疑っている。「塾で〈何を覚えさせられているか〉は知らないが、そもそも〈そんなことには興味はない〉。ただ〈試験に受かることのできる力〉を塾で身につけてくれたらよい」そう思っているのだろう。

調べてみるとよい。こういう報道をした東京のキー局でキャスターをしている既婚者たちの子どもは皆、学習塾通いをした「お受験」の親体験者かその予定者かその最中者のはずである。その他裏方をやっている人びと、朝日新聞や毎日新聞などで部長なんぞをやっているような人びとも同じである。ハチマキをして特攻隊員のように受験に送り出される小学6年生を、彼らは何度もニュース映像で流したが、「それはとても異様な光景に感じる」という感受性がもはやなくなっているのである。30年前の日本人はそうではなかった。「それは馬鹿げている」とちゃんと感じ、そのことを「問題化」して議論の俎上に上らせていた時代が確かにあったのである。今後はますます小学生の受験者が増えるということは、「受験技術伝授の低年齢化が進む」ということである。日本人はますます多くの人びとが馬鹿げた領域に突っ込んでいきたいようである。日本の子どもたちは「正しい子ども時代」「正しい子ども体験」を親たちの近視眼的対処によってますます奪われていくのだろう。

まるで石油危機のとき、トイレットペーパーがなくなるという流言によって、大挙して買い占めに走った主婦たちの姿とどこが違っているのだろう。どこの学校を出たかという「水戸黄門の印籠」が欲しくて駆けずり回る競争を「教育」という名で呼ぶのはよすべきだ。まさに西洋式の教育システム導入以後に、日本の教育が「加速度を増していびつになっていった原因」もここにあるのだから。近代式教育の生みの親たる西洋人は「水戸黄門の印籠」なんぞ欲しがらない。国家が率先して「水戸黄門の印籠システム維持の擁護者」となって現在にいたっているのが日本である。

「教育の危機」とは「そのことに気づくことができなくなっている」という「その感覚の麻痺状態」から生まれているのだ。

再生会議や再生機構のメンバーには、この3、40年で異様に肥大化した、この日本の受験産業の隆盛をどう思っているのか、聞いてみたいものである。塾と言えば、昔は書道塾、そろばん塾などが主流だった。それは小学生中学生の子どもたちの生活要求とも合っていた。彼らは現実社会と直結する習い事をしていたからである。「自分たちは大事なことを習っている」という実感も持てただろう。それは健全な社会だった。「そういう実感」を子どもたちから次々と奪っていった3、40年間が、有識者たちが再生(本当は「維持」)させたいと思っている教育システムである。だとしたら未来は暗いのではないか。

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